らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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若槻里城(長野市)  

◆団地の公園に眠る古の居館◆

雷鳴に追われるように若槻山城を退却して、若槻団地内に眠る里城を訪問する。

昭和40年代に造成が始まったこの団地は、戦後の高度成長期のピークを象徴するようなマンモス団地には違いない。

若槻里城 (6)

説明板には「山城と城館が一対になった史跡は長野市では貴重である」と記載されているが、城館跡が破壊されただけであって、中世の山城の麓にはセットで館があり場所も特定されているケースは多いのだ。

とはいえ、明治時代の初期まで若槻里城が現存されていたとは驚愕の事実であり、何故今日まで残して貰えなかったのかを思うと残念でならない。

若槻里城 (2)
史実を語る貴重な資料だ。

周囲に水掘を穿った中世の城館跡で信州に現存するのは伴野氏館跡ぐらいであろう。

城跡は東西120m×南北180mというから、規模の大きさは伴野氏の居館の比では無いだろう。

源義家の孫である若槻頼隆が相模の国毛利の庄から地頭職として任ぜられてこの地に居館を建て、子孫は押田氏、多胡氏(田子)に分流して存続したという。西条氏もその流れを汲むようだが、はっきりした事はわからない。

※頼隆の子である頼定は「森頼定」と名乗り父の毛利庄を継承し命脈を繋ぐ。子孫には織田信長の家臣として有名な森長可も一族だと云われるが、仮冒という説もある。
武田氏滅亡後に森長可が信長より川中島四郡を与えられたのは偶然なのだろうか?

若槻里城 (4)
公園内にある説明板と碑が城跡を物語る。

若槻里城
里城池と呼ばれる城館北側の堀跡。水が少ないせいか荒れ放題なのは悲しい。

 弘治3年(1557)の上野原[うわのはら]の戦いは、若槻山城と髻山城の間で行われたと伝えられている。この戦いの大将は、上杉方は長尾政景(謙信の従兄)、武田方は牧之島城主の馬場美濃守信春といわれる。この戦いに先立つ6月、飯山在城の上杉謙信は、武田方の市河藤若[いちかわとうわか/とうじゃく]の拠る野沢城を攻めている。

上野原の戦いの場所は特定出来ていないし、若槻山城や里城がどんな関わりを持ったのかは謎のままである。

「宿命のライバル」という言葉を巨人の星で知った小生には、この地でせめぎ合う謙信公と信玄公が花形満と星飛馬に思えてならないのである・・・・(笑)

≪若槻里城≫ 

標高360m
築城年代:鎌倉時代?
築城・居住者:若槻氏?
場所:長野市大字若槻団地三番地
攻城日:20011年7月24日 
お勧め度:★☆☆☆☆
所要時間:
見どころ:堀跡
その他:童心に還って遊ぶには良い。しかしブランコやシーソーの順番は守ろう!(笑)



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Posted on 2011/07/29 Fri. 21:50 [edit]

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