らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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早落城(松本市)  

★不名誉な名を後世に残した稲倉城の支城★

10月のスタートを如何お過ごしでしょうか?

最近は「面倒くさい症候群」に苛まれていますが、頑張って今月も掲載します・・・(笑)


赤沢氏は清和源氏を祖とする小笠原一族であり、もともと伊豆赤沢郷の出自であるという。

建武2年、浅間地方に勢力を張っていた四宮氏の討伐に功がありこの地を賜り、伊豆より移り住んだらしい。

早落 (2)
洞地区の住吉神社が登り口。

以後、主家であり信濃の守護となった小笠原家の家臣として浅間・本郷などを引き続き統治した。

応永七年(1400)の大塔合戦には、守護軍として大文字一揆軍や村上氏らの国人連合軍と戦うが、当主の赤沢秀国は討死してしまい、小笠原長秀は敗北し京都に逃げ、守護を解任される。

早落 (4)
登る事約10分で最初の郭となる。切岸のみで堀切は確認出来ない。

永享八年(1536)に、室町幕府により国人連合の反乱が制圧されると、今度は兄の家督を譲り受けた小笠原政康が守護となり、一族の赤沢家は小笠原氏を助け、各地を転戦する。

早落 (13)
三の郭手前の堀切

信濃統一を目の前にして政康が亡くなると、小笠原氏は後継ぎを巡るお家騒動により府中小笠原家と松尾小笠原家に分裂。

松尾小笠原家は更に二派に割れて鈴岡小笠原家となり、三派で抗争するというアホな事態を招く。

早落 (14)
二の郭への切岸と堀切。

府中小笠原家に仕えていた赤沢氏だが、稲倉城の支城であった洞城(早落城)を小笠原氏の命により同族で伊深城主の後庁氏に奪われる。

この仕打ちが、のちに赤沢氏の離反の原因となったのは推察に難くない。

早落 (20)
23×5の二の郭。細長いだけ。

武田軍の本格的な中信濃侵攻が始まり、塩尻峠の合戦で小笠原軍が敗れると赤沢氏は武田氏の軍門に降り、本領を安堵される。

そして小笠原氏の居城への攻撃開始が始まると、速攻で勝手知ったる洞城を攻め落としたという。

早落 (31)
13×4の本郭。恐ろしいトゲ科の植物が完璧な防禦で近づくのも困難だ(笑)

この時、赤沢氏は二派に別れ、もう一派は小笠原長時と共に越後の上杉に逃れたという。

その後の赤沢氏は武田軍の信濃先方衆として四十騎の大将だったと記録がある。

早落 (29)
本郭の南側の堀切。

洞城を奪還した赤沢氏は、家臣の林氏を城代に置いた。

武田が滅亡すると、徳川家康の支援により深志に返り咲いた小笠原貞慶の配下となり苅谷原城主として上田方面への要衝の地を守る。

しかし天正十年(1582)、根本的に小笠原氏を信用していない赤沢氏は密かに上杉に通じ、塔ノ原氏・古厩氏(ふるまや)と共に謀反を企てる。

謀反は事前に小笠原貞慶に発覚していまい、松本城にて自殺を命じられて、信濃の赤沢氏は滅亡する。
(塔ノ原氏・古厩氏も謀殺された)

早落 (32)
早落城遠景。

さしたる見どころも無い城跡だが、赤沢氏がこの城の奪還への執着とその後の悲劇を知る貴重な城跡でもある。

≪早落城≫ (はやおちじょう) 洞城(ほらじょう)

標高:778.0m 比高72m
築城年代:不明
築城・居住者:赤沢氏・後庁氏・林小太郎
場所:松本市浅間温泉洞
攻城日:2011年9月25日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:15分
見どころ:堀切、郭など。









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Posted on 2011/10/01 Sat. 20:30 [edit]

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