らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

1010

平瀬城(松本市)  

◆深志城を支える安曇野への前線基地◆

相変わらずろくな計画も立てずに平瀬城、中塔城、小岩嶽城の攻略に向けて進軍を開始する。

前夜に飲みすぎたせいか、青木峠を飛ばしていると自分の運転で車酔いをして気持ち悪い・・・(笑)

ウモ様の戦記を参考に平瀬城の入口を探すのだが、案の定通り過ぎてしまう。

horase (8)

駐車場所が無いので19号線の200m先の駐車スペースに車を乗り捨てて攻城を開始。

horase (9)

数軒の民家の先に説明板と道祖神があり、奥の沢沿いに20分ほど登れば良いらしい。

楽勝と思ったのだが。

horase (12)
登山道は整備されていて感謝ですね。

平瀬氏は鎌倉幕府滅亡後に守護の小笠原氏に仕え、その信任も厚かったという。
林城を守る北の拠点として、犬甘城とともに平瀬城は重要な位置を占めている。

horase (13)
10分ほどで南斜面の帯郭四段が現れる。

平瀬城は犀川右岸平瀬山の西南および西北に張り出した尾根の先端に作られた馬蹄形の山城で、北側の峰が本城となり、沢を挟んだ南側に支城を持つ。

horase (33)
本郭に接続する虎口。

帯郭から10分で城跡??とんでもない。息は上がるわ汗は大量に噴き出すわで「こんなにキツイの?」

まあ、苦労した甲斐があり、西端の三の郭からは松本平の素晴らしい景色が一望出来た。

horase (21)
ガスってて北アルプスは何となくって感じ。

horase (19)
二の郭は方形。西端の三の郭とは土塁と切岸で仕切っている。

天文十九年(1550)、小笠原氏の本城林城を自落させ深志城に本拠を置いた武田晴信は、翌二十年、村上氏討伐の道を開くため、小笠原長時に属し抵抗を続けていた平瀬城を攻めた。

horase (28)
35×25の本郭。松林に囲まれた古城の趣き。

「高白斎記」には「十月十四日、村上義清が北安曇郡丹生子(にゅうのみ)に動いたのを察知し、これに備えるため、十五日晴信は甲斐を出発し、二十日深志城に入った。二十四日小雨の中、平瀬城を攻略し、200人余を討ち取った。二十八日には栗原左衛門(高白斎)が平瀬城の地割りをし、鍬立(くわだて)を行い、十一月十日に原美濃守虎胤を城代にした」とある。

※丹生子は「ちえぞー!城行こまい」様のHPで丹生子城に詳しいのでご参照下さい。

horase (29)
本郭東端。戦死者の霊を祭る鎮魂碑が建つ。

天文二十一年、小岩嶽城攻略の際、晴信は八月十七日に平瀬城に入っており、平瀬城は深志城以北の前線基地であった。

horase (34)
本郭の背後を断ち切る一番深い堀切の底。

本郭の先は約8本の堀切(竪掘)が連続する。地割後の武田による大幅な改修だと思われる。

ってか、残念な事に、この城の最大の見どころである見事な遺構を竹藪が覆い尽くしている・・・・(汗)

horase (4)
上巾20mの東端にある堀切。

尾根を執拗なまでに切り刻む必要があるのか疑問だったが、当時は苅谷原城、光城、塔ノ原城が依然として反武田勢力として健在だった事を考えると、用心に用心を重ねたのかもしれない。
(天文二十二年にこの危機は打開された)

藪だらけの堀切写真など見るに堪えられないので割愛するが、御勘弁下さい(笑)

hiraseIMG.jpg
宮坂武男先生の縄張り図。南の支城も描かれている。

今回は、南の支城も直登する覚悟だったが、止め山で松茸泥棒になる事は避けて断念した(爆)

冬になって再挑戦したいと思っていますが、何時になる事やら……。

horase (6)
南の支城は標高650m、比高80mだとか。

≪平瀬城≫ (ひらせじょう)

標高:716.0m 比高140m
築城年代:不明
築城・居住者:平瀬氏・武田氏
場所:松本市島内下平瀬下田
攻城日:2011年10月9日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:下田集落より沢を詰めて約25分
見どころ:馬蹄形の郭、連続する堀切・竪掘、景色など
参考文献:探訪信州の古城~城跡と古戦場を歩く~(郷土出版社)

hiraseIMG_0001.jpg
宮坂武男先生の鳥瞰図。北にも支城を持つ強固な連郭式山城だった事が分かる。





スポンサーサイト

Posted on 2011/10/10 Mon. 10:52 [edit]

CM: 4
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top