らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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東条城(筑北村)  

◆拡張工事の途中で落城した未完の城?◆


昨日は「あお師匠」をお迎えして「村上氏連珠砦」をご案内する。

拙いガイドで足手まといにならなかったか(?)不安だったが、小生の誇る山城砦群を少しでも多くの方に知って頂ければ幸いである。

しかし全工程6時間はさすがにシンドイ・・・(笑)

今回は西条城の対面にある「東条城(ひがしじょうじょう)」をご案内つかまつるとしますか。

東条城(筑北村)
本城小学校を通る県道277号線で途中の脇に白山神社がある。そこが城跡への登り口になる。

この地は古来より往来の要所にあり、西へは青木峠経由で小県へ、南は立峠、風越峠を越えて会田(四賀村)や明科へ通じている。

青柳城の西の守りとしては竹場城を置いて生坂・安曇野方面からの侵入に備え、南口は東条城、西条城を配置したものと思われる。

東条城(筑北村) (31)
石段を登り参道の突き当たりに白山神社の社殿。脇から登ると城域となる。

S字のような稜線に沿って郭が展開しているのだが、まとまりが無い。
以下、宮坂武男先生の縄張り図を参考に巡ってみる。

図解 山城探訪第五集 松塩筑資料編 187
神の図面に落書きをしてはいけませんが、ここは仕方ないですね(笑)

東条城(筑北村) (3)
社殿裏にある33×11の長方形の郭。

東条城(筑北村) (4)
北側を上巾10堀切で遮断。

東条城(筑北村) (6)
50×4の短距離走トラック?もともと禿げ山なのか?

東条城(筑北村) (7)
峰の分岐にあたる小山。北に下ると花顔寺に至る。

宮坂先生も推察しているが、この峰の二つの郭は明らかに増設されたものと思われる。
居館及び本郭の防禦は脆弱であり、万が一の時の逃込み用(立て籠もり)として急遽作られたようなフシがある。

東条城(筑北村) (14)
物見地区Cの郭。12×10。

東条城(筑北村) (11)
南の立峠方面。

東条城(筑北村) (10)
対面の西条城。

物見地区は二つの郭があるが、加工度は低い。本郭へ向けて一条の堀切跡が確認出来る。

東条城(筑北村) (15)

ようやく主郭に辿り着く。稲荷社と説明板があるが、手を加えたような痕跡は見当たらない。
北側に二段の腰郭で段差を付けているが、グリコのおまけ程度。

東条城(筑北村) (19)
31×8。んーん、これだけでは他の郭との連続性も期待出来ず守り用が無い。

東条城(筑北村) (24)
一本の堀切じゃダメでしょう!(笑)

天文二十二年(1553)、武田晴信の侵攻により会田岩下氏が降伏、続いて青柳氏も臣従を誓い、麻績城の服部氏は上杉謙信のもとへ逃亡する。
武田統治下の麻績、本城地区では一時的に戦乱も途絶えた為、城の補強など必要無かったのかもしれない。

東条城(筑北村) (25)
居館があったとされる郭跡。(62×6)その先には防禦施設も見当たらなかった。

≪城主・城歴≫
説明板によると、以下の記載がある。

東条城は弘長元年(1261)に築城され東条右京之進の子孫が代々居城していたが、天正年間に小笠原氏と戦い敗れている。
「大葭原(おおよしはら)郷開基には、青柳家臣東条左衛門というもの居城し、当村を領せり。城の長さ16間、横4間、西向きの城なり。是より東へ21間のところに堀切あり、北へ18間のところに堀切あり、要害なり。ご菩提寺を花顔寺という」
東条氏を一之瀬と改め、落城時の城主は一之瀬治部太夫とも伝えられる。

東条城(筑北村) (32)
東条城全景(東側より)

天正十年(1582)の武田滅亡後、この地域に軍事的緊張が高まり郭を急ぎ増設していたが、小笠原氏の軍門に降った青柳氏を貞慶が深志城中にて謀殺する。

混乱に乗じて小笠原軍が各支城を攻撃し、東条城もその時に落城したものと思われる。

≪東条城≫ 

標高:755.0m 比高100.0m
築城年代:1261年
築城・居住者:東条氏
場所:東筑摩郡筑北村東条字竹ノ下
攻城日:2011年11月23日 
見どころ:堀切跡、曲輪群など
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:20分
参考文献:「図解山城探訪 第五集 松塩筑史料編 宮坂武男著」

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Posted on 2011/11/27 Sun. 12:37 [edit]

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