らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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矢倉城(麻績村)  

◆戦国時代に築城された青柳城の北面を守る砦城◆

10月に安曇野方面へ兵を入れたものの、生坂/筑北/麻績の攻城で泥沼化した戦線となり既に12月も終盤である。

年内に大町/白馬方面の征服を目指すはずだったのだが、冬将軍の前には撤収せざるを得ない。

場所は特定出来ても辿り着ける保証など無き各個撃破の進軍は無謀極まりない・・・・このことである(笑)

矢倉IMG
青柳城とその周辺を防禦する支城群の位置関係。(yahoo地図より)

今回ご紹介するのは、青柳城の北を守る矢倉城。

立地は麻績川の左岸で四阿屋山(あずまやさん)から北へ延びた室沢川の左岸の尾根の末端に位置する。
矢倉集落の善導寺の裏山で室沢ダムの西側にある。

矢倉城 (25)
矢倉集落から長野道をくぐった先に登り口がある。

結構な急坂を尾根伝いに南へ登ると三峰社があり、この先が城域となる。

矢倉城 (23)
城跡の神社仏閣には必ず手を合わせる事が攻城戦の基本であり、霊に取り憑かれない護身術でもある。

「信府統記」では「矢倉山古城地 矢倉村より巴(南南東)ノ方 六町二十三間、本城ノ平 東西十六間、南北七七間 城主知レス」とある。

東筑摩郡誌には、「服部伊賀守の次男で大倉佐渡守の築く所なり また一説には村上氏之を築き属将をして守らしめたる塁柵なり」とあるらしいが、服部氏が属城を築くほどの勢力があったとは思えない。

矢倉城 (29)
9×5の小さな三の郭

矢倉城 (8)
しばらく歩くと石祠のある二の郭(20×21) 隣接する本郭より撮影。

本郭と二の郭は半分しかない土塁と、やはり半分しかない堀切りで遮断されている。

神社を造営した際に、土塁を破壊し堀は埋められたようだ。

矢倉城 (2)
西側に半分残る堀切。

矢倉城 (20)
東側の埋められた堀切。土塁を備えた厳重な防禦であったと思われる。

矢倉城 (16)
本郭(41×21) 櫓ぐらいは立ちそうだが、居館は無理でしょう。

鎌倉時代に伊賀氏が築城したとの説もあるが、二つしかない狭い曲輪と5本の堀切で尾根を断ち切るは技法は、明らかに築城年代が新しく、戦国時代の仕様である。

主郭背後には物見台とも思える擂鉢状の高土塁があり頂上には虚空菩薩が祀られている。

矢倉城 (33)

矢倉城 (22)
高土塁の西斜面には沢へ向けて竪堀が走る。

主郭背後の高土塁の南側は、この城で最大の上巾を持つ堀切で遮断されている。

矢倉城 (5)
土塁より見下ろす斜面と堀切。堀の上巾9m。

矢倉城 (36)
堀底から東斜面。高さ4m。

ここからは犬走りのような2つの細い郭と堀切が続く。城の搦め手であり、峰伝いに登れば青柳城へ繋がっている。

矢倉城 (32)

郭を縦に造作して堀切を何本か入れただけの単純な作りであるが、峰の左右の谷は深く要害の場所である。

矢倉城
北の支城としては申し分の無いロケーションだ。

矢倉IMG2
宮坂武男氏による矢倉城の縄張図

矢倉城 (13)
矢倉城全景

≪矢倉城≫ (やくらじょう) 

標高:730.0m 比高105.0m(諏訪神社より)
築城年代:戦国時代
築城・居住者:青柳氏?
場所:東筑摩郡麻績村大字麻字矢倉
攻城日:2011年12月11日 
見どころ:堀切跡、曲輪など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:15分
注意:特に無し
参考文献:「図解山城探訪 第五集 松塩筑史料編 宮坂武男著」








Posted on 2011/12/18 Sun. 05:25 [edit]

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