らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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海尻城(南牧村)  

◆佐久甲州街道を抑える断崖の城◆

皆さんにとってこの一年はどうのような年であったでしょうか・・・。

「神は乗り越えられる試練しか与えない・・・」

色々と思いを巡らす年末年始になりそうだが、その言葉を信じて笑顔で前に進むしかない。

皆さまにとっての新年は「昇竜」の一年となる事をお祈り申し上げる次第であります。


海尻城 (5)
医王院脇にある登城口。

ある程度名の通った城跡をご紹介するのは本懐では無いし他の方の考察が的を得ていると思うのだが、家の近所に板垣信方の墓があれば、彼の功績を辿る場所として掲載しなければ・・・という変な義務感に襲われるのだ(笑)

海尻城 (27)
通常の登城ルートを無視して東端の物見郭の稜線から這い上がる。結構険しい防禦ラインだ・・・(汗)

いかに楽しく(?)攻城戦が出来るかで、その城の評価は違うものとなる・・・・(笑)

海尻城、小ぶりながら、なかなかどうして堅城かもしれない。

海尻城 (25)
三の郭には標柱と説明板がある。

海尻城 (22)
二の郭と石碑の建つ本郭。南北朝様式のオーソドックスな縄張り。

以下は「信州の古城」(2007年 郷土出版社 藤森英二氏記述)より引用

「天文九年(1540)正月、武田の重臣板垣信方は突如海尻城を囲み、城を守っていた村上の家臣薬師寺右近を和睦開城させる。守りには、小山田備中守昌行、日向大和守昌時、長坂左衛門国清らが就いた。この報に触れた村上義清は十二月に兵を向かわせて、日向の守る二の曲輪、長坂の守る三の曲輪を落とした。しかし本郭の小山田が持ちこたえる中、信虎が総勢3000で駆け付けたので兵を引いた。以後、海尻城は武田氏の信濃侵攻の足がかりとなる。」

海尻城 (20)
本郭から見る二の曲輪、小屋のある三の曲輪。

子供の陣取り遊びではないので、現在の連続する狭い三の曲輪、二の曲輪、本郭を名だたる武将がそれぞれ守ったとは信じ難い。

恐らく当時は甲州街道を取り込み、更に東側の千曲川に続く集落を取り込んだ部分が三の曲輪で、医王院を含めた物見砦(四の郭)が二の曲輪であり、現在の一・二・三が本郭だったのであろう。

海尻城 (19)
主郭背後の大堀切。(上巾9m×高さ7m)冬でもこの状態なので、夏は藪だらけ?

海尻城 (15)
二本の堀切を経て長方形の曲輪から見る本郭。草刈り機が必要だ(汗)

海尻城 (14)
背後の堀切。搦め手を守る防禦施設だ。

城の北側は大月川が流れ天然の堀を為し、南は西堀と呼ばれる湿地帯(泥田)に守られたまさに断崖城である。

天文九年における海尻城の戦いにより武田氏の橋頭堡が確保され、同年五月に武田軍は大軍で佐久に侵入し数十の城を落とし前山城を修築し佐久の拠点としている。

海尻城 (7)
本郭東の四の郭。甲州街道を眼下に捉え、監視していたと思われる。

確かにここを抑えれば、佐久方面への侵入は容易になる。
伴野氏の統治時代に造られた砦を佐久に進出した村上義清が改修し甲斐武田氏とのディフェンスラインとした説は頷ける。

この城を巡り幾多の戦いがあった事は想像に難くない。

海尻城
麓の公民館より見る海尻城。

海尻IMG
「探訪 信州の城古城 第五章 小諸とその周辺諸城 海尻城」(郷土出版社)に掲載されている宮坂武男氏による鳥瞰図

≪海尻城≫ (うみじりじょう 城山)

標高:1080.0m 比高40m
築城年代:不明
築城・居住者:井出氏、小山田氏
場所:南佐久郡南牧村海尻
攻城日:2011年3月6日 
お勧め度:★★★★★☆
城跡までの所要時間:医王院より5分
見どころ:郭群、堀切
参考文献:「図解山城探訪 第九集 佐久南部資料編 宮坂武男著」「探訪 信州の古城~城跡と古戦場を歩く~(2007年 郷土出版社)」





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Posted on 2011/12/30 Fri. 08:46 [edit]

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