らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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森城 (大町市)  

◆森と湖に囲まれた仁科氏の古城◆

そうタイトルを書いてしまうとザ・ブルーコメッツの「ブルーシャトウ」がENDLESSで頭の中をリピートしている・・・(笑)

小生は団塊の世代では無いが、グループサウンズ時代の名曲としてガキの頃に替え歌を歌っていた記憶がある。

まあ、確かに当時は森と湖(いずみ)に囲まれた青いシャト―だったのかもしれない・・・・(爆)

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木崎湖の南端の半島状に突き出た台地に立地している水城というのが通説であり、城の周囲は湖水に囲まれている様子が説明板にも描かれている。

現在は耕作地になっている城域の西側は、発掘調査という外科的手術を施さない限り湖だったとは言い難い。

灌漑や治水技術が進歩したとはいえ、北信濃の県境に近い湖が500年の間に水位がそれほど下がったとは信じられない。

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森城西側。恐らく沼地もしくは泥田であり、対岸からの侵攻は不可能にしていたと思われる。

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54×62の方形の主郭跡に建つ仁科神社。

説明板によると、平安時代から800年に渡りこの地を治めた国人土豪の仁科氏の本城であったかのような記載があるが、果たしてそうであろうか。

確かに越後の国境にも近く千国街道が脇を走り、要害の地であったこの場所には砦もしくは詰所があったのかもしれない。

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城域の東側は湖面であり、遺構もそのままなので水位が変化しているとは思えない。

以下は、日頃小生が参考にさせていただいている戦国大名研究サイトからの「仁科氏」に関する記述だ。

場所特定と体力があれば何とかなる城郭研究とは違い、膨大な文献や古文書から戦国時代を検証する内科手法は小生には到底及ばない領域である。

「やがて、時代は戦国乱世の様相を濃くし、盛康の代になると隣国甲斐の大名武田晴信が信濃侵攻を開始し、信濃国内は動揺した。そして天文十一年(1542)七月、諏訪の大祝諏訪頼重が攻め滅ぼされ、晴信の部将板垣信形が諏訪郡代となって諏訪を治めた。これに対し諏訪氏の一族高遠氏が諏訪回復を目指して、諏訪に攻め込んだが、武田軍に敗れ去った。天文十四年になると、晴信は府中および伊那に進出し、藤沢氏の拠る福与城を攻撃した。
 このような武田氏の攻勢に対して、府中・松尾の両小笠原家、仁科氏、伊那の諸豪らは連合して福与城の後詰めに出陣したことで、晴信はついに福与城を落とすことができず兵を引き揚げた。しかし、晴信の侵攻はやまず、佐久郡、小県郡などに攻め入り、天文十七年、塩田庄において北信の雄村上義清が武田軍と戦い、村上義清は武田軍に大勝した。

 この勝利に乗じて、小笠原・村上・仁科・藤沢氏らの連合軍は、諏訪郡に討ち入った。連合軍に包囲された板垣信形は、開城に及ぼうとした。このとき、包囲軍の一翼を担っていた仁科道外は、小笠原長時に下諏訪を仁科の領地として望んだが、長時はこれを容れなかった。道外は「労して得るところなし」といって、兵を収めて仁科に還ってしまった。そこに晴信が甲府より兵を率いて着陣し、長時は敗れて林城に兵を退いた。

長時が兵を退いたことに勢いを得た晴信は、勝窪において小笠原軍を破り、小笠原氏の本拠である府中に侵攻した。結果、小笠原氏は本城を守ることもできず没落していった。
 これより先の天文十六年、仁科盛康は晴信の麾下に属したと「仁科系図」に見える。しかし、盛康は病身だったため、嫡子盛政が代わって政務を執ったとある。この系図の所伝によれば、天正十七年の諏訪攻めに加わった仁科道外は、嫡流仁科氏の人物ではなく、一族の仁科氏であったことになる。

 永禄四年(1561)五月、武田信玄(晴信を改め)は川中島に軍を進め、海野・香坂・仁科の三人を成敗し、海野の名跡は子の竜芳に継がせ、油川五郎を仁科の名跡として甲府に帰ったと『甲陽軍鑑』に記されている。
 また、「仁科系図」によれば、五月盛政自害す、山県三郎兵衛先手にて森城に向かう。盛道および弥三郎、甚十郎ら、囲みを逃れて飯灯山に隠れる、とある。他方『筑摩県史』には、天文十二年(1543)仁科盛政武田氏に降る。永禄四年三月、川中島において武田氏の誅殺するところとなる、と記されている。これら諸書の伝を見る限り、盛政はなんらかの理由により武田信玄に殺害されたようである。一説には川中島で戦死したともいう。

 ところが、永禄十年(1567)八月、生島足島神社において、武田家に対する起請文を出した武士たちのなかに、仁科盛政の名が残されている。これによれば、盛政は信玄に誅殺されたという説は信じられなくなる。とはいえ、盛政がいつ隠居し、いつ死去したのかは不明であり、盛政のあとの仁科氏家督は、信玄の子盛信が継いだ。以後、仁科氏一族のうち武田氏に帰属した者は、みな盛信の麾下に属した」

これほど端的に記された文章は感動ものである。

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本郭と北側の三の郭を仕切る水堀跡。

仁科氏の名跡を盛信に継がせた晴信は、要害の地にあった森城を湖水に浮かぶ平城として、武田流の城に改造したのかもしれない。

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三の郭に建つ阿部神社(仁科氏の祖先を祀る)と堀切。

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主郭の背後の堀切。往時は水掘だったと思われる。

武田氏滅亡後は、小笠原長慶が対上杉景勝の重要防衛拠点として兵を入れたという。

図解 山城探訪 第六集 安曇資料編 101
宮坂武男氏による縄張図。

戦略的に熟考し洗練された平地の水掘りよりも、山の上に造られた無意味な空堀にこそ魅力を見い出す小生には、退屈な「ブルーシャト―」には違いない・・・・・(笑)

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丸馬出しのあった郭跡。

≪森城≫ (もりじょう または山田城) 

標高:768.0m 比高0.0m
築城年代:不明
築城・居住者:仁科氏、武田氏、小笠原氏
場所:大町市森
攻城日:2011年11月5日 
見どころ:水堀跡、曲輪など
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分
その他:BGMは「ブルーシャトー」で決まり?
参考文献:「図解山城探訪 第六集 安曇史料編 宮坂武男著」「戦国大名研究」


 


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Posted on 2011/12/08 Thu. 21:57 [edit]

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