らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0331
上原城(茅野市) 
◆決戦を挑む事無く放棄された諏訪総領家の居城◆
今さら諸先輩方が書き尽くしたメジャー級の上原城など掲載しても「やんごとなき」と思っているが、らんまるの攻め方に興味を持つ方もいるかもしれない(笑)
聞けば本郭まで車で入れるというが、それでは諏訪総領家に対して甚だ失礼である。
せめて板垣平までショートカットするにしても、そこから自分の足で城跡を目指して目で確かめるのがよかろう(笑)

現在、板垣平と呼ばれる中腹の広大な平削地は、15世紀中頃までは諏訪総領家が屋形を形成した場所であり、発掘調査の結果でも、武田統治の時代とそれ以前の遺構がハッキリ分かれているという。

さすがに諏訪総領家の居館なので、恐ろしく広い敷地である。
武田統治下には諏訪初代の郡代である板垣信方が屋敷を置いたというが、周囲に堀切などを置くこともなく防御レベルは低いが、諏訪家が滅亡した後に敵が侵入してくる可能性は極めて低かったのことを示しているのかもしれない。

西側に大きくせり出している段郭。この下に数段の腰郭が確認出来るが私有地なので侵入禁止。
板垣平と呼ばれるこの地には武田の郡代屋敷が置かれ、上原城も大がかりな改修が加えられて初代長官として板垣信方が入る。
筑摩・安曇を攻略するための前進基地として城下町の再形成も含めて武田の威信にかけた工事が敢行されたのであろう。

城館一体型であることが分かる縄張図。
城への登城口は板垣平の北側入り口の脇を登る。小さな木の鳥居があるのでそこを目指すと良い。

地元の小学生が整備してくれたようで(?)、可愛らしい案内板が誘導してくれる。

竪掘と間違えるような道の右手(東側)には壮大な竪掘が斜面を貫いている。恐らく武田時代に改修され構築されたものだと推察される。

中腹の段郭から板垣平まで続く長い竪堀。
城域への入り口には数段の郭があり、竪掘の起点は郭を仕切る堀切であることが見てとれる。

来るものを寄せ付けない三の郭への関門。
桑原城と類似している上原城は、諏訪氏の居城時代はもっと単純な作りだったと思われるが、そうは云っても諏訪惣領家が五代七十年間を本拠とした城である。
三の郭跡には金毘羅神社があり、物見岩という巨大な岩を挟んで二の郭に繋がっている。
まあ、別に岩に登らなくても神社入り口からの眺めは諏訪地方を眼下に抑える絶景である。



二の郭と本郭の入り口。
大部隊が駐留出来る広さは無いが、そこそこの籠城戦であれば持ちこたえられそうだ。
しかし、その前提は山麓の居館が維持出来ていれば・・の話である。
諏訪頼重が殺到する武田軍の前に早々とこの城を放棄したのは、城館のある場所が火攻めでもされたら持ちそうに無いと判断したのかもしれない。
また、東の峰伝いに攻められれば籠城戦もままならい。
だからといって自ら火を付けて焼き払う必要があったのだろうか?
そんなことをするから武田軍も城下に火をかけるのだ・・・・(汗)
確かに独立峰である桑原城であれば四方を敵に囲まれても「ある程度駆け引きの時間稼ぎ」が出来ると判断したのかもしれない。

30×20の本郭。周囲を低い土塁で囲み南西に虎口がある。
この城の見どころは何と言っても主郭背後の上巾30mもある巨大な大堀切である。


見る者を圧倒する巨大な堀底(東方面)

西へ掘り下げたその先には二段の削平地が続く。
堀切を挟んで「離れ山」と呼ばれる郭を置く。

堀底から見上げる「離れ山」

東斜面には段郭を置いている。

搦め手方面から見た「離れ山」とその手前の堀切。車でここまで登れるがそれではこの城の醍醐味が薄れる(笑)

堀は東斜面に深く続いている。
郭の配置と堀切だけ見れば一つ前の時代の山城形式なのだが、城の東側の斜面には畝傍状の竪堀を数条穿っている。
本郭の背後の堀切も、西側は切岸にわざわざ土塁を後付して防御を強化した跡が見受けられる。

畝傍状の竪掘群。城の東斜面は堅固な防御を誇る。
武田流の防御強化が行われた事は間違いないであろう。

上社大祝家の詰め城である干沢城も眼下に収まる。
天文十二年(1542)から六年間諏訪の郡代は上原城の屋敷に置かれたが、諏訪の茶臼山に高島古城を鍬立てすると同時に郡代も高島城下に移った。(高島古城を参照願います)
政庁は移ったものの上原城の軍事的価値はそのままであり、城兵を置き整備も怠り無くされていたと思われる。

横堀と竪堀をクロスさせる凝った技法を用いている東斜面。
天正十年(1582)織田信長による武田征伐が始まると、武田勝頼は上原城に入り指揮所としている。
木曾谷、伊那谷を怒涛の如く押し寄せてくる織田軍の動向を聞いた勝頼は上原城で何を思ったのであろうか。
武田の滅亡により諏訪信満から110年間続いた上原城も廃城となった。

ズーム7倍で見る西側の麓から撮影した三の郭。
中世の諏訪一族による抗争、諏訪宗家の滅亡、武田時代の栄枯盛衰を見続けてきた上原城。
城跡に吹く風とその景色ともに、遠き昔に想いを馳せることの出来るお勧めの山城です。

≪上原城≫ (うえはらじょう 古城・小城)
標高:978.1m 比高178m (板垣平:820m 比高:100m)
築城年代:不明
築城・居住者:諏訪氏・武田氏
場所:茅野市
攻城日:2012年2月26日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:15分(板垣平より)
見どころ:大堀切、竪堀、畝状の堀、土塁など
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」
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今さら諸先輩方が書き尽くしたメジャー級の上原城など掲載しても「やんごとなき」と思っているが、らんまるの攻め方に興味を持つ方もいるかもしれない(笑)
聞けば本郭まで車で入れるというが、それでは諏訪総領家に対して甚だ失礼である。
せめて板垣平までショートカットするにしても、そこから自分の足で城跡を目指して目で確かめるのがよかろう(笑)

現在、板垣平と呼ばれる中腹の広大な平削地は、15世紀中頃までは諏訪総領家が屋形を形成した場所であり、発掘調査の結果でも、武田統治の時代とそれ以前の遺構がハッキリ分かれているという。

さすがに諏訪総領家の居館なので、恐ろしく広い敷地である。
武田統治下には諏訪初代の郡代である板垣信方が屋敷を置いたというが、周囲に堀切などを置くこともなく防御レベルは低いが、諏訪家が滅亡した後に敵が侵入してくる可能性は極めて低かったのことを示しているのかもしれない。

西側に大きくせり出している段郭。この下に数段の腰郭が確認出来るが私有地なので侵入禁止。
板垣平と呼ばれるこの地には武田の郡代屋敷が置かれ、上原城も大がかりな改修が加えられて初代長官として板垣信方が入る。
筑摩・安曇を攻略するための前進基地として城下町の再形成も含めて武田の威信にかけた工事が敢行されたのであろう。

城館一体型であることが分かる縄張図。
城への登城口は板垣平の北側入り口の脇を登る。小さな木の鳥居があるのでそこを目指すと良い。

地元の小学生が整備してくれたようで(?)、可愛らしい案内板が誘導してくれる。

竪掘と間違えるような道の右手(東側)には壮大な竪掘が斜面を貫いている。恐らく武田時代に改修され構築されたものだと推察される。

中腹の段郭から板垣平まで続く長い竪堀。
城域への入り口には数段の郭があり、竪掘の起点は郭を仕切る堀切であることが見てとれる。

来るものを寄せ付けない三の郭への関門。
桑原城と類似している上原城は、諏訪氏の居城時代はもっと単純な作りだったと思われるが、そうは云っても諏訪惣領家が五代七十年間を本拠とした城である。
三の郭跡には金毘羅神社があり、物見岩という巨大な岩を挟んで二の郭に繋がっている。
まあ、別に岩に登らなくても神社入り口からの眺めは諏訪地方を眼下に抑える絶景である。



二の郭と本郭の入り口。
大部隊が駐留出来る広さは無いが、そこそこの籠城戦であれば持ちこたえられそうだ。
しかし、その前提は山麓の居館が維持出来ていれば・・の話である。
諏訪頼重が殺到する武田軍の前に早々とこの城を放棄したのは、城館のある場所が火攻めでもされたら持ちそうに無いと判断したのかもしれない。
また、東の峰伝いに攻められれば籠城戦もままならい。
だからといって自ら火を付けて焼き払う必要があったのだろうか?
そんなことをするから武田軍も城下に火をかけるのだ・・・・(汗)
確かに独立峰である桑原城であれば四方を敵に囲まれても「ある程度駆け引きの時間稼ぎ」が出来ると判断したのかもしれない。

30×20の本郭。周囲を低い土塁で囲み南西に虎口がある。
この城の見どころは何と言っても主郭背後の上巾30mもある巨大な大堀切である。


見る者を圧倒する巨大な堀底(東方面)

西へ掘り下げたその先には二段の削平地が続く。
堀切を挟んで「離れ山」と呼ばれる郭を置く。

堀底から見上げる「離れ山」

東斜面には段郭を置いている。

搦め手方面から見た「離れ山」とその手前の堀切。車でここまで登れるがそれではこの城の醍醐味が薄れる(笑)

堀は東斜面に深く続いている。
郭の配置と堀切だけ見れば一つ前の時代の山城形式なのだが、城の東側の斜面には畝傍状の竪堀を数条穿っている。
本郭の背後の堀切も、西側は切岸にわざわざ土塁を後付して防御を強化した跡が見受けられる。

畝傍状の竪掘群。城の東斜面は堅固な防御を誇る。
武田流の防御強化が行われた事は間違いないであろう。

上社大祝家の詰め城である干沢城も眼下に収まる。
天文十二年(1542)から六年間諏訪の郡代は上原城の屋敷に置かれたが、諏訪の茶臼山に高島古城を鍬立てすると同時に郡代も高島城下に移った。(高島古城を参照願います)
政庁は移ったものの上原城の軍事的価値はそのままであり、城兵を置き整備も怠り無くされていたと思われる。

横堀と竪堀をクロスさせる凝った技法を用いている東斜面。
天正十年(1582)織田信長による武田征伐が始まると、武田勝頼は上原城に入り指揮所としている。
木曾谷、伊那谷を怒涛の如く押し寄せてくる織田軍の動向を聞いた勝頼は上原城で何を思ったのであろうか。
武田の滅亡により諏訪信満から110年間続いた上原城も廃城となった。

ズーム7倍で見る西側の麓から撮影した三の郭。
中世の諏訪一族による抗争、諏訪宗家の滅亡、武田時代の栄枯盛衰を見続けてきた上原城。
城跡に吹く風とその景色ともに、遠き昔に想いを馳せることの出来るお勧めの山城です。

≪上原城≫ (うえはらじょう 古城・小城)
標高:978.1m 比高178m (板垣平:820m 比高:100m)
築城年代:不明
築城・居住者:諏訪氏・武田氏
場所:茅野市
攻城日:2012年2月26日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:15分(板垣平より)
見どころ:大堀切、竪堀、畝状の堀、土塁など
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」
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Posted on 2012/03/31 Sat. 21:36 [edit]
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