らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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岩門城(上田市)  

◆大日堂が建立された中世の城館跡◆

せっかくのゴールデンウィークなのだが家族の行事と自治会の行事で埋まってしまい城攻めはお預けとなる(悔)

しかもこの快晴・・・もう笑うしかない・・(笑)

気を取り直して今回ご紹介するのは岩門城(いわかどじょう)。

岩門城 (2)
城館跡としてではなく、「岩門大日堂」として上田市の指定文化財になっている。


場所は神川(かんがわ)の右岸で、上田市古里(こさと)地区の段丘崖に位置する。

郷土誌「ふるさとの地名遥遥」(桜井松夫編)によるとこの場所は、「中世の城館跡であり戦国時代、武田氏の来攻で主は館を空け、いずこかに姿を消した。そして長い年月あいたままになっていたが、多分村人が合議により大日如来を祀り、大輪寺八世である天淵龍禅師を招いて庵を開いた。(中略)‥これが大日堂の開創であり1700年より少し前であろう」


岩門城概略図
岩門城及び周辺の概略図。地名は天保十五年(1844)作成の岩門地籍図を参照した。


岩門城の将主・城歴は伝承が無く不明である。
中世時代の周辺の土豪としては海野氏、太田氏、小宮山氏がいるので関わりのある人物が築城したのかもしれない。いずれにしても武田氏の侵攻により自落したものと思われる。

岩門城 (1)
大日堂跡の③区域の北側の土塁。


概略図の㋐は「ホリノ内」と呼ばれる地籍で、城館の北側は土塁を施した巾10mの堀の跡だったらしく神川まで続いていたと考えられる。

岩門城 (5)

土塁は大日堂建立時に削られたか、或いはその後の耕作地への変更過程で改変されたのだろう。


岩門城 (16)
①に残る土塁と神川へ繋がる堀切㋐

岩門城 (18)
東側に残る土塁から見た東端に落ちる堀切㋐


岩門城 (6)
郭④は果樹園になっている。堺には土塁があったと思われる。


城跡の南北部分(①②と③④の区切り)は「国分寺道」と呼ばれ、祢津街道から国分寺へ向かう古道だったようで、よそ者が城館内を通過する事は不可能であった。


岩門城 (8)
城域南側の堀切㋑

岩門城 (9)
堀切㋑は東側の崖の部分にその遺構を見ることが出来る。

この城館の本郭は「本城」と呼ばれる地籍で周囲を㋐と㋒の堀切で守られている。
まあ、あくまでも中世の館跡なので飾り程度の防御だ。

岩門城 (15)
本城と呼ばれる郭跡。

恐らく、北東に位置する岩門神社も本郭を防衛する出丸のような郭だったと思われる。

岩門城 (23)

この程度の城館では、武田軍の侵攻に耐えられるはずもなく、自落はやむを得ないだろう。

この場所にある大日堂が有名なのは、佐久間象山の師である活文禅師(かつもんぜんじ)が隠居してこの地で寺子屋を開き多くの門弟に教育をした場所だからである。

当時17歳だった佐久間啓(象山)は松代から地蔵峠を越えて1年間この地に通い、活文禅師(当時53歳)の教えを学んだという。
活文禅師の門下生は千人を超すとも云われ、著名人では高井鴻山、山寺常山、赤松小三郎などがいる。


岩門城 (7)
往時の大日堂は改築増築が繰り返され、終いには公民館となってしまい面影も無い。


さて、幕末戦記になりそうなので、このへんで止めておこう‥‥(笑)

≪岩門城≫ (いわかどじょう 本城 堀の内)

標高:523m 比高:31m(神川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市大字古里字本城
攻城日:2012年4月22日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分
見どころ:堀切、土塁
その他:近くに似たような立地の染屋城がある。活文禅師についての手作りの解説書も無料でおいてあります。
参考文献:「図解山城探訪 第三集 上田小県資料編 宮坂武男著」(縄張図・伝承)





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Posted on 2012/04/29 Sun. 17:58 [edit]

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