らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0407

矢沢城(上田市)  

◆真田三代を支えた重臣矢沢家の居城◆

上田小県の城館として80番目の掲載となる。

砥石城も矢沢城もこの地域ではメジャーな城に属するので、今さら掲載しても仕方が無いのだが避けては通れない宿命にある(笑)

矢沢城縄張図 ②

真田幸隆の弟である頼綱は諏訪神氏の出である矢沢家を継ぎ、兄を助けて武田晴信に従い信濃先方衆として各地を転戦する。

矢沢城2 (1)
南側の麓から見上げる矢沢城本郭。

天文十年(1541)海野平の合戦で海野棟綱と祢津氏・矢沢氏の連合軍は、諏訪頼重と武田信虎の連合軍に敗れる。海野氏は関東管領上杉憲政を頼って上野に逃れ、祢津氏は諏訪頼重の斡旋により神氏の出自であることを理由に赦され、矢沢氏は詫び言を申し出て所領を安堵されたという。

矢沢城2 (6)
大手登り口の大日堂。

天文十四年(1545)正月、矢沢氏は小県諸氏とともに武田方に降ったというが、諏訪頼重の攻め滅ぼされる直前であり真田幸隆の勧誘工作とも考えられる。

矢沢城2 (12)
城域では一番広い50×13の東屋下の長方形の郭。戦闘時における城主の館があったのだろうか?

村上義清の勢力が砥石城まで南下し真田周辺まで拡大していた事を考えると、矢沢氏はかなり衰退していたのであろう。

推測の域を出ないが、矢沢家に真田幸隆の弟を送り込む事で周辺土豪の調略を進める意図があったのかもしれない。

矢沢城2 (15)
神社社殿及び東屋周辺は公園整備の際に改変されている。

天文十七年(1548)上田原の合戦、天文十九年(1550)砥石城崩れで手痛い敗戦が続いた武田軍であったが、真田幸隆の支援と矢沢頼重の地道な懐柔策が功を奏し、翌天文二十年(1551)に砥石城の攻略に成功する。

矢沢城2 (16)
神社の社殿から東屋の郭。段差があるが、もともとは続きの郭だったと思われる。

武田氏滅亡後、矢沢頼重は甥っ子で真田家当主となった真田昌幸の重臣として活躍し上州攻略に功を挙げ岩櫃城代となる。その後も後北条氏を相手に名胡桃城、小川城、小那淵城、沼田城を攻略し沼田城代となる。

天正十三年(1585)、第一次上田合戦合戦の折には沼田城代として上杉景勝の援軍も得て北条氏邦の攻撃を撃退。息子の頼康は矢沢城にて僅か八百の守兵で徳川軍の依田源七郎の兵千五百を退けたという。

親子ともども凄い武勇伝ではある。

矢沢城2 (20)
36×14の主郭。

矢沢城2 (21)
主郭からは矢沢古城が見える。

矢沢城2 (22)
本郭と段差で繋がる35×17の二の郭。

縄張図を見ると腰郭を多様した複雑な城に見えるが、作りは単純で尾引城と良く似ている。尾根を断ち切る二重堀切㋐も貧弱に思える。

矢沢城2 (30)
主郭背後の堀切は石積みが周回している。

矢沢城2 (29)
祠の建つ三の郭。

この城、主郭背後の堀切がセールスポイントで、その堀切は北東に向け堅剛な竪堀となっている。

矢沢城2 (32)
三の郭背後の堀切。残念ながらかなり埋もれている。

貧相な縄張の城も優秀な城主の戦略と戦術にかかれば要害堅固となる。

矢沢城2 (33)
四の郭。この尾根先は耕作地に変貌していて現状をとどめない。

矢沢城2 (36)
二の郭背後の堀切は麓に向かって竪堀となり恐ろしい長さで落ちている。

真田氏の支配下に戻った矢沢城は、西の虚空蔵山砦とともに真田の南方面を守った要害城であった事がわかる。

矢沢城2 (49)
神川の畔の虚空蔵山砦を望む。

真田三代フリークには「矢沢城」は特別であろう。

真田ブランドの名がつくと宝石の輝きに変わるのだ(笑)

矢沢城2 (47)
目と鼻の先に見える砥石城。


≪矢沢城≫ (やざわじょう)

標高:663m 比高:60m
築城年代:不明
築城・居住者:矢沢氏
場所:上田市殿城字城山
攻城日:2012年4月1日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:5分
見どころ:郭、竪堀、石積み跡
参考文献:「図解山城探訪 第三集 上田小県資料編 宮坂武男著」

矢沢城遠景
虚空蔵山砦山麓の高架橋の神川より見る矢沢城。









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Posted on 2012/04/07 Sat. 08:04 [edit]

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