らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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於下館(長野市 川中島今里)  

◆冬はスケート場、夏は釣り堀で賑わった居館の堀切も消えた◆

小田切城館シリーズも最終章である。

前回は「長野郷土史研究会機関誌 長野」をご紹介したが、今回は「武田・上杉・信濃武士」をご紹介しよう。

takeda uesugi sinanobusi

実はこの本、売価は1,000円なのだが、中身は長野県立歴史館2007年10月に発刊し現在は品切れという幻の一品である。(再販の予定は今のところ無いみたいです)

昨年、長野県立歴史館の年間パスポート券(何と2,000円)を購入すると無料で貰えるというので、慌て会員になり貰った本である。大半がカラーで、通常の発行本なら3,000円以上の値が付く本ではないかと思っています。

北信濃の豪族や国人衆が武田・上杉の領有権争いに巻き込まれて戦国時代のどのように生き、その後どうなったかを丁寧に解説しています。

で、今回ご紹介するのは於下館(おしもやかた)

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昭和三十年代までは堀切も残る屋敷跡があったというが、今は何も無い。


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辛うじて看板を探しだす事が出来たが、ホントに住宅ばかりで何も無いのである(汗)


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屋敷の北側から内後館、そしてその先の小市城方面。

「こんな場所でスケートなんか出来たの??」

そう思う方もいらっしゃるかもしれない。

昭和四十年の中頃までは、信州では「田んぼリンク」は当たり前だったし小学校の校庭(中庭)に水を張って凍らせたリンクでスケート授業が行われたものである。近所のため池だってスケート大会が開かれたくらいである。
(年代がバレそうだが・・・笑)

地球温暖化は私たちの想像を絶するスピードで進行しているらしい。


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屋敷の南側の於下神社周辺。水田とソバの花とリンゴ畑が混在する。


さて、幸長討死後の小田切氏はどうなったのであろうか。

冒頭で紹介した本によれば、幸長の嫡子は武田氏に降り武田氏滅亡後は上杉景勝に従い所領を安堵されたという。天正十年には小田切備前守は稲荷山城将に任ぜられた。

また、小田切氏の一族は応永十八年(1411)越後国蒲原郡細越に移り会津の名門芦名氏に仕えたと云う。
戦国時代は芦名氏の家臣でありながら上杉や武田にも通じていたらしく処世術に長けていたらしい。
御館の乱では主君芦名氏に従い景虎を支援するが、天正十七年に芦名氏が滅亡すると上杉景勝に仕えたと云う。

はて、どっちがどっちで正当な小田切氏はどっちなのでしょうか・・・(笑)

小田切駿河守幸長の墓所は園光寺にあります。

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「華々しく散り、武名と家名を残す」

小田切幸長の活躍とその最後は、そののち大阪夏の陣で散った幸村と似ているような気がしてなりません。


吉窪城遠景
於下屋敷から望む吉窪城と小松原城遠景。


≪於下館≫ (おしもやかた 小田切下屋敷)

標高:365m  比高:0m
築城年代:不明
築城・居住者:小田切氏
場所:長野市川中島今里於下
攻城日:2012年6月24日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:-
その他:内後屋敷・円光寺(小田切幸長の墓所)
参考文献:「武田・上杉・信濃武士」(長野県立歴史館発行)


で、吉窪城・小松原城の攻城戦ですか??、まあ秋口ということにしましょうか(笑)


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犀川に架かる小市橋から見た小田切氏の小松原城と吉窪城。




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Posted on 2012/06/29 Fri. 21:12 [edit]

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