らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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屋代城(後編 千曲市 屋代)  

◆貴重な南の尾根を失った国人屋代氏の壮大な山城~一重山本郭編~◆

前篇を書いたら後編も書く・・・正しい社会人としての責務である(笑)

信州の山城の特徴といえば、郭を数珠のように繋げて前後の尾根を堀切で穿つという単純明快な様式である。
斜面に段々畑(腰郭・段郭と呼ばれるもの)を構築するのは初期の山城に共通している。

前篇では北尾根に展開する郭群を紹介したが、後編では一重山の頂上を主郭とする郭と堀切をご案内します。

しかし、この城の謎を解き明かす南尾根の六本の堀切と郭群が消滅したのは「痛恨の一撃」であり残念である。

満照寺 (6)
南西方面から臨む一重山と消滅した尾根。


ここからは「平成七年 屋代城跡範囲確認調査報告書」における中世城郭研究会の三島正之氏の記述と縄張図を基にした「なんちゃって図面」(笑)で屋代城の謎について考えてみたいと思う。

屋代城主郭縄張図


北の郭群から続く尾根は昭和四十年代の土砂採取によって往時より10mも削られたが、昭和二十二年の国土地理院の航空写真を見る限りでは堀切も平削地が見られない。恐らく尾根道の左右を切岸にした程度の連絡通路だったと思われる。

堀切㋐が出現する場所あたりから主郭城域群となる。


屋代城 051
上巾6m×深さ2mの堀切㋐


屋代城 052
歪な形をした郭6。押し寄せる敵に対して守備側が伏兵を配置するための造作であろうか。


屋代城 058
上巾6m×深さ5mの堀切㋑。東側の斜面側が長いので後から付け加えた事が考えられる。


北尾根の郭群も今回の主郭部分も、西側へ向けた段郭が見られるので、築城当初は北からの脅威を想定して防御が為されたと見るべきだろうか。
村上一族が北信濃へ版図を拡大すると、中野を中心に勢力を広げた高梨氏と衝突するのは必定であり北の拠点として拡充が図られたのかもしれない。


屋代城 061
郭5。長さ30mで最も広い場所は横幅15m。

屋代城 063
堀切㋒。上巾10m×深さ10m。地堀の深さよりは段差で深さを稼いでいる。通路は土橋だというが・・。


この場所には「堀切」と「土橋」の標識がある。

三島正之氏は、この土橋が後世の耕作地化に伴う造作物であるかもしれないと指摘されている。
主要な郭が連続する入口手前にわざわざ土橋など作るはずもなく、往時は堀切から西斜面の腰郭を通って郭4へ入ったのであろう、としている。
全く同感である。


屋代城 069
堀切を見下ろすこの高さは守備側兵にしてみれば絶対なのである。

屋代城 070
郭4。段差のある郭3を囲むように作られている。


屋代城 078
南側から見た郭3(24×12)。手前は高土塁。


さて、この城が廃城となった後に再生された可能性を示す堀切が㋓なのだと推察する。
三の郭と二の郭を遮断する堀切㋓は郭と郭の間を地掘していない。
堀切なのだが、地面の高さは堀底も三の郭も同じなのである。

ものぐさ太郎の解決策は「高土塁」という防御壁を作ることで大堀切と同じ効果を少ない労力で実現したのだ(笑)


屋代城 079
破壊されずに残った高土塁。なるほど壁を作れば掘らずに済むという合理的な(?)思考である。


屋代城 073
郭3の正面から見た土塁。


これ見るとさあ、二重堀切にしたかったのかなあーって思うんです。
でも、それやったら郭3は機能しないよね(爆)

天正期における最後の補修工事と思われるのは、この堀切が東西の斜面にかなりの長さで竪掘りを形成しているって事でしょうか?


屋代城 087
郭2の虎口。


屋代城 089
主郭と郭2。段差の手前は堀切跡が発掘調査で確認されている。


平成6年のトレンチによる発掘調査では、主郭と二の郭の間には堀切が確認されている。

近代の耕作地化による改変ではなく、戦国期に埋め戻されたというのだ。

「城割」である。

武田晴信は、征服地における城割を奨励している。土豪や国人が在地の山城を維持する事を嫌い平地に城を築城した。海津城、岡城、大岡城などはその典型的な例であるとされている。

屋代城 091
屋代城本郭跡。


天文二十二年、村上氏を見限り武田氏に降った屋代氏の本城は国人の城としてはかなりの規模であり、雨宮周辺の穀倉地帯からの年貢や千曲川流域の海運を利用した交易による収入は相当なものであったと思われる。

屋代氏の武田への臣従の条件は「領地替え」であったと思われる。

城割を要求したのも条件だったのかもしれない。


屋代城 101
主郭西側に残る石積み。往時は全周を石積みと土塁で防御していたと思われる。


屋代城 096
主郭東側、竪掘㋗の先端にある石積み。


海津城の築城にあたり、鞍骨城、尼飾山城を始めとする周辺諸城の警備を行い、千曲川右岸で坂城方面への抑えとして屋代城も再興されたのかもしれませんネ。


屋代城 099
主郭の背後は長大な土塁壁をもつ竪掘りが恐ろしい長さで東斜面を遮断している。


残念ながら主郭の南に存在した六条の堀切と五つの郭は消滅している。

恐らく対岸にある小坂城にあるような鋭い堀切だったのであろうか。(改修時期は小坂城がはるかに新しいとも云われる)


【屋代氏の上杉離反の謎】

天文二十二年(1553)以降、屋代政国は村上義清を見限りいち早く武田方に降りて所領を安堵され、雨宮の地も新恩として加増されている。同年八月に雨宮の代替地として荒砥を拝領しているが、この時に屋代城は廃城になったものと思われる。

屋代城 107
二の郭西側の石積み。


確かに屋代氏にはデカ過ぎる城であり、比高が低いというのが欠陥だと晴信は見抜いていたのであろう。荒砥城であれば比高300m以上あり、上杉軍の攻撃に対しても少数でも守れると思った故の処置であったが、天正二十三年の第一回川中島合戦ではその願いも悲しく荒砥城は自落している。

その後、川中島四郡の支配を確立した武田軍の信濃先方衆として約二十年の間を更埴・更科を治めた屋代氏であるが、織田信長の信濃侵攻により武田氏が滅び、織田氏が斃れると上杉景勝に属する。


天正十年(1582)に端を発する天正壬午の乱では、上杉方として翌年の四月に小笠原貞慶の麻績城を落とす働きを見せた屋代秀正だが、この時に既に徳川家康に内通していたという。

一説によれば本城である荒砥城を景勝に接収され、海津城で城将を務める村上景国の補佐(副城将)としての処遇に対する個人的な恨みが上杉家出奔の原因だと云われていた。(小生もそう思っていた)

満照寺 (5)
かつての屋代氏の居館跡と伝わる満照寺。背後の山が一重山である。


屋代秀正は有能な上杉方の武将として働きながら裏では徳川家康と手を握っていたのである。
このあたりの処世術は真田昌幸を彷彿とさせるし良く似ている(笑)

天正十二年(1584)四月、秀正は突如として無断で海津城を引き払い、屋代城ではなく荒砥城に立て籠もり反旗を翻す。事態を重く見た景勝は信州衆に荒砥城攻撃と景国の捕捉を命じ、秀正は八日には荒砥城を脱出して佐野山城に籠り、猿ヶ馬場峠経由で麻績方面に逃走したという。

満照寺 (3)
屋代氏の菩提寺である満照寺の紋は、村上一族の証しである丸に上である。


平成七年の発掘調査報告書には、古文書の調査も並行して行われた記述があり、それによれば屋代秀正の一連の行動は計画性があり、山浦景国(村上義清の嫡男)及び麻績氏・青柳氏も屋代氏に同調して企てたものであることが判明している。

屋代秀正による上杉氏からの独立運動は失敗し、実の兄弟である室賀満俊を頼り逃げ延びるが、徳川方の室賀氏は当時上杉景勝方へ寝返った真田昌幸により謀殺されてしまう。

歴史にifは無いのだが、もし屋代秀正によるクーデターが成功していれば、天正壬午の乱はどうなったのであろうか。上田城の真田昌幸は徳川に刃向う事もなかったのだろうか??


≪屋代城≫ (やしろじょう)

標高:457m  比高:90m
築城年代:不明
築城・居住者:屋代氏
場所:千曲市屋代字一重山
攻城日:2012年7月12日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:5分
見どころ:郭群、堀切、竪掘、石積みなど
その他:屋代駅裏側の満照寺は屋代氏の菩提寺であり居館跡であるという。
参考文献:「屋代城跡範囲確認調査報告書」(平成七年更埴市教育員会)「信州の古城~城と古戦場を歩く~」


yasirojyou1.jpg
猿ヶ馬場峠より見た屋代城遠景。(ズーム7倍)







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Posted on 2012/07/13 Fri. 23:36 [edit]

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