らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0722

清長寺青柳氏居館(東筑摩郡筑北村青柳)  

◆非業の運命を辿った青柳氏の城館跡◆

さて小田切城館シリーズが前号で一応の結末を迎えたので、転戦を余儀なくされた「麻績・筑北シリーズ」もこの項をもってケジメとしたい・・・・(笑)

青柳宿でチョッとだけ紹介した「清長寺(せいちょうじ)」は苦汁に満ちた戦国期における青柳城主である青柳氏の居館跡である。

青柳宿 (8)

青柳城の西山麓にある清長寺は青柳氏の居館地と伝わるところで、青柳宿から寺への参道は寺小路と呼ばれこの両側のところが家臣の屋敷跡と伝わる。
青柳城へは寺の左手から登る道があり往時の大手口はここであったと推定されている。

青柳宿 (22)
寺小路と侍屋敷跡。(道路の左右)


青柳宿 (21)
道路脇には碑が建てられている。


清長寺については「長野県町村誌」に「東西十六間半、南北二十四間 面積一反三畝七歩、本村東の方にあり。右硯水寺の末寺也。青柳氏頼長創建すと云ふ・・・」とあるが、この寺は頼長以後も使われているらしいので初めは別のところにあり、やがて館跡が空いて移ったものだと推測されている。

青柳氏館①


「東筑摩郡誌(大正8年)」には「青柳城主青柳近江守清長、同伊勢守頼長、武田氏に属し清長は天正十年の春高遠城に戦没し、頼長は同十二年正月松本城内に誘殺せられ、藤九郎長道は落城の際戦死せりと云ふ」
※頼長の謀殺事件は天正十五年であり記載誤りと思われる。

青柳氏三代の墓は清長が創建した硯水寺にあり、清長寺には清長夫人の墓所がある。

青柳宿 (16)
寺小路を突き当りL字で正面入り口へ。往時のオーソドックスな手法である。


青柳氏は武田氏の侵攻により軍門に降り従う。武田氏滅亡後は小笠原貞慶が川中島進出への拠点とするために天正十一年から翌年にかけて一年間に四度上杉景勝と青柳城・麻績城の争奪戦を繰り返している。青柳氏が天正十五年に滅亡すると青柳城には小笠原の家臣の松原氏が在番している。松原氏も居館として利用したのだろうか。

青柳宿 (18)
城館東側の敷地内に立つ庫裡。既に廃墟となっていて本堂同様荒れ放題である。


青柳宿 (10)
傷みの酷い本堂。裏の墓地も雑草と藪が生い茂り荒廃している。


清長寺の境内は90×50で、背後の北から東にかけては尾根が回り天然の防御壁となっている。また、南側は自然の沢が堀の役目を果たしている。
また、青柳城から延びる尾根が青柳宿を囲むようになっていて麻績方面への道は切通しを越えなければならず、まさに天然の要害である。

青柳宿 (15)
城館より北方面。


青柳宿 (23)
城館より西方面。


武田軍が川中島方面への進軍にあたりこの地へ逗留しているので、何らかの宿営の為の施設があったと思われる。

それにしても寺の荒廃ぶりは目を覆いたくなるような現状であり、庫裡の屋根は陥没し数年後には倒壊するのではないかと思われる。

観光案内の看板が立派なだけに、そこに記載されている名所旧跡についても早急に対策を立ててほしいものである。

青柳宿 (27)
鐘楼門と清長寺全景。


≪清長寺青柳氏居館≫ (せいちょうじあおやぎしきょかん)

標高:670m  比高:30m(青柳宿より)
築城年代:不明
築城・居住者:青柳氏
場所:東筑摩郡筑北村坂井青柳二
攻城日:2012年7月8日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:周辺には切通し、青柳宿など
その他:青柳城までは比高230m
参考文献:「図解山城探訪 第五集 松塩筑編 宮坂武男著」

青柳宿 (26)
寺小路より仰ぎ見る青柳城と居館跡。この素晴らしい景色を後世に残したいものです。



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Posted on 2012/07/22 Sun. 09:19 [edit]

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