らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0826

南熊井城 (塩尻市片丘南熊井)  

◆三方を囲む見事な空堀が現存する城館跡◆

夏場の城攻めは悲惨である。

体力の消耗が激しい上に、蜘蛛の巣、アブや蜂を各個撃破してその先にあるのは雑草と藪の大群である(汗)

ヤブレンジャー様御一行の夏場の合宿には驚くばかりであったが、ネタ切れの恐怖から逃れるために出陣太鼓を鳴らしてヤブ深き中信濃へ進軍する(笑)

今回ご紹介するのは「南熊井城」(塩尻市)である。

南熊井城 (4)

「なあ~んだ、また平地の城館か・・・」

本日は朝日村の武居城を攻め落とし、広大な北熊井城で鍬立てをして、最後が南熊井城攻めだったのである。

熱中症寸前で道路から見える看板を見た瞬間、「外しちゃったか?・・・・」 このことである(笑)

南熊井城 (8)

しかし、道路脇の奥の土手が盛り上がっているではないか!!

「盛り上がってるかい?」

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおーっ!」(って、夏フェスロック会場かい?)


北側から土塁をイッキに駆け上がると上巾15mの堀切㋐が展開する。

南熊井城 (10)
土塁は城への開口部の為か一部平削されている。


縄張図を示すと以下のようになっている。

南熊井城 (30)

果て?そっくりな縄張りの城館が近くにあったような・・・・そう、ここから3km北にある赤木北城を思いだした。
段丘崖の築城方法にはお決まりの縄張り方式だったようだ。


南熊井城 (11)
南北を遮断する堀切㋑との合流箇所。北側を走る道路は往時は沢だった。

熊井は古くは熊野井と言い諏訪下社へ寄進されていたようであるが、下社が衰退するとこの地を巡り諏訪上社と府中小笠原氏が争ったという。

南熊井城については長野縣町村誌や東筑摩郡誌にも記述が無い。北東1kmにある北熊井城の出城という説もあるが果たしてそうあろうか?

守矢分書によれば、南北朝末期の嘉慶元年(1387)と推定される9月26日に「府中熊井原合戦、諏訪打負大死、小笠原打勝候」とある。

諏訪との領土境であった熊井付近に小笠原長基は 大小の城館や山城を築かせ在地土豪に守らせたらしく、北熊井城も南熊井城もそれぞれ独立した方形居館であった可能性が高いのではないだろうか。
(北熊井城はその後増築と拡張を繰り返し現在の姿になっている)

南熊井城 (16)
北の沢(現在は道路)に落ちる堀切㋑


南熊井城 (17)
本郭北東の隅にある祠。段差があり郭の周囲は土塁があったと推定される。


南熊井城 (22)
何がなんだか本郭(笑) 63×65


いかん、文章の記述能力の無さを写真でごまかしている・・・・(汗)

天文十二年(1545)、上伊那地方を平定した武田晴信は熊井に進軍し、北熊井城は自落。南熊井城も同時に落城したと思われ、それ以後府中攻略に際して北熊井城と共に兵站基地として利用されたらしい。

南熊井城 (25)

また、片丘村誌によれば、この城の北東には六十有余の旗塚が弧を描くように築かれていたというが農地整備により壊滅してしまったという。
北熊井城の出城とするなら、わざわざ本城に向けて防御性の高い旗塚など造るはずも無く、この方形館が独立した城館であったことの証明であろうか。

南熊井城 (18)
北東の堀切土塁から見た本郭の切岸と松林寺へ続く堀切㋐。見事な遺構である。


≪南熊井城≫ (みなみくまいじょう) 

標高:714m 比高14.0m
築城年代:不明
築城・居住者:小笠原氏、武田氏
場所:塩尻市片丘南熊井
攻城日:2012年8月25日 
見どころ:堀切跡、切岸、土塁
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:-
注意:私有地なので散策には注意
付近の見どころ:北熊井城、赤城北城、赤木南城など
参考文献:「図解山城探訪 第五集 松塩筑史料編 宮坂武男著」


Posted on 2012/08/26 Sun. 10:00 [edit]

CM: 8
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top