らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0812

広戸城 (北佐久郡御代田町)  

◆湯川の断崖を利用した堅固な崖淵城◆

久しぶりに御代田町方面へ出掛けてみた。

というのも先日小田井城の尾台又六郎の末裔の方からメールを頂戴したが、小生のゴミのような知識では小田井氏のその後は全く知る由も無く、何か地元の方に話でも聞けたら~なんて単純な理由である。

それだけではもったいないので、未調査の城の下調べも兼ねて行ってみたのである(笑)

今回ご紹介するのは、下調べのつもりがマジ調べ(?)となった「広戸城」である。

広戸城 (40)
北東の湯川沿いから見た広戸城。川縁から70mの落差のある断崖上にある。


城跡は耕作地に変貌しレタスなどの野菜が植えられている。地主さんが作業中だったので、許可を貰って撮影させていただく事が出来た。(ホントに気さくな老夫婦の方でしたヨ、感謝感謝!)

広戸城 (3)
広戸城の大手口。完全に私有地なので注意が必要だ。


小田井城、金井城(遺構は消滅)など、佐久地方は天然の田切地形や断崖の崖渕を利用した城館が数多く存在する。

広戸城は自然地形に高度な加工を加えた城で、この地方でも秀逸である。

広戸城見取図

広戸の集落のある場所の地籍は「屋敷」と呼ばれていることや、長倉の牧へ通じる古道が付近を通っていることから、この地域の要所であったのであろう。

広戸城 (21)
郭1(100×80)。耕作地化による改変もあるが、往時のままの領域と見ても良いだろう。

広戸城 (15)
郭に残る区画の跡。小田井城にも似ている構造。

城主城歴に至っては、はっきりしたものは無いが、天文年間に武田信虎(晴信の父)の攻撃を受けるが要害の地でこれを撃退し、ある年の暮れに餅つきをしている最中に武田軍の急襲を受け落城したという。

時の城主であった武舎加賀守(海野氏系であるという)は討死し、その奥方は崖から傘(陣傘だったという)を広げ飛び降り、沼に沈んだと云う伝説がある。

広戸城 (24)
主郭の東端。この先は急峻な崖となるので、ここから飛び降りたのだろうか?

地主である柳沢さんの奥さんにお茶をご馳走になった時に全く同じ話を伺う事が出来た。

史実はどうであれ、年寄りから子供へ語り継がれる「口伝」というものが廃れてしまっている。残念でならない。

「崖下の沼は底無し沼だから、近付いてはいけない」と、村の年寄りは子供に言って聞かせたという。

また、城跡に城主を悼み墓碑を建てても都度割れてしまうのだと云う。近年までこの地域では年の暮れに餅をつくと餅が赤くなりつかなかったという風習も残る。

※詳細は武舎氏の末裔であられる武舎秀雄さんの「我が家の歴史-海野氏研究「郷土の歴史」」を参照願います。

広戸城 (19)
主郭西側を遮断する上巾20m深さ8mの堀切㋐。水路を堰き止めれば水掘りになったと思われる。

広戸城 (22)
往時は小田井城と同じW型の堀底だったのだろうか?興味は尽きない。

目視で確認出来る堀切㋒と郭3は、残念ながら今回の調査では保留となった(汗)

堀切㋐+㋑+㋒+㋓でそれぞれの郭を独立させた手法は加工度も高く、戦国時代末期まで修正を繰り返して使われた感じがする。

広戸城 (30)
耕地化により盛土された堀切㋒。郭跡と誤認しそうな形状ではある。


広戸城 (34)
西側の台地より望む広戸城の郭。


東西180m、南北200mの城域は小田井城に次ぐ広さを誇り、その加工度の高さは周辺の諸城を凌ぎ武田軍に拠る改修を受けたのかもしれない。

天文十六年(1547)に勃発した小田井原の合戦において、小田井城と共に武田軍あるいは上杉憲政軍のいずれかかが修築し利用したと考えるのは誤りであろうか?


≪広戸城≫ (ひろとじょう 武舎城、民者城)

標高825m 比高70m(湯川より)
築城年代:戦国時代
築城・居城者:武舎氏(?)
場所:北佐久郡御代田町広戸
攻城日:2012年8月12日
お勧め度:★★★★☆
見どころ:大堀切、郭、
その他:湯川の対岸に頭槌城、宮平城、梨沢城館など
注意事項:私有地なので許可を頂かないといけません。

広戸城 (41)
広戸城遠景。









スポンサーサイト

Posted on 2012/08/12 Sun. 21:19 [edit]

CM: 6
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top