らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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武居城 (東筑摩郡朝日村西洗馬)  

◆横堀と畝傍状竪掘で武装強化された三村氏代々の居城◆

松本平の南西部に勢力を保持していた三村氏の居城といえば、三村忠親が塩尻市洗馬に築城したとされる妙義山城(みょうぎさんじょう)が有名だが、それ以前の代々の居城は西洗馬(現在の朝日村)の武居城であったとされる。

武居城 (5)
城への登り口は公園整備に伴い駐車場や庵風な建物、冠木門、東屋が無意味に建てられている。

武居城 (6)
城跡への入口には冠木門。県の指定史跡ともなると架空の場所に県民税で建物が乱立するらしい・・・(笑)

三村氏は承久の乱(1221年)後、新補地頭として信濃国洗馬荘に入り、近隣の武士との間に婚姻関係を結びながら、その勢力を強めるとともに、当初反目しあっていた小笠原氏とも提携し、洗馬周辺に所領を拡大していったと云われている。


武居城見取図

現在の遊歩道は往時の登城口とは全く関係なく、西側の斜面の比較的傾斜の緩い場所を選んで造られたものだが、実はこの城のウィークポイントでもある。

武居城 (9)
遊歩道を登りきる手前に現れる堀切㋑。上巾15mはあるだろうか。


この城の魅力は、何と言っても直線距離で約80mはある土塁を伴う横堀とそこから斜面に落とされる七本の畝傍状の竪掘であろう。

他に類似した形状を持つのは白馬村の三日市場城だと云われている。

武居城 (10)
遊歩道は南端の竪掘を通路として横堀へ到達する。説明板の場所を含めて前半は四本の畝傍状の竪掘。


武居城 (11)
迫り上げた横堀の土塁から放出されている竪掘。鋭角に斜面を掘り下げていく。


武居城 (15)
説明板から北へ更に三本の竪掘。攻城兵からは土塁で守備兵の動きは見えない。


南斜面の防御の甘さをカバーする横堀+畝傍状竪掘の増設は戦国末期であろうと推定されている。

三村家主流の最後の当主であった忠親の妙義山城の縄張りには竪掘はあっても横堀などなくオーソドックスな斜面の段郭群と最上部の堀切のみである。果たして誰が?? 貞慶さんであろうか。

武居城 (17)
横堀は主郭を囲む段郭への侵入を拒む形の二重堀切に繋がり防御力の高さを誇っている。素晴らしい。

三村氏代々の城と言っても、戦国時代に武田軍が押し寄せる前までは連郭に堀切を穿っただけの単純な砦であったことは想像に難くない。

当主の三村忠親は比高差78mの平山城である武居城では防御の危うさを感じて芦ノ田(本洗馬)の釜井庵に居館を移し比高差180mの妙義山城を築城するに至ったというが、果たしてそうであろうか?

武居城 (23)
横堀から本郭下の腰郭への通路。安土城の大手門の石畳並みの荘厳さであり、レッドカードを突きつけたくなる(笑)

武居城は三村時代には確かに脆弱な防御の城だったと思われるが、詰の城として尾根伝いの山頂に「重ね城」を築いていたのである。(比高差150m、標高1011m)

この事実をどう捉えるかで妙義山城や旭城の存在価値が変わるように思える。

武居城 (26)
主郭の一段下を楕円形に周回する帯郭。

武居城 (27)
主郭と二の郭を区切る堀切㋐

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40m×16mの楕円形の本郭。耕作による変形著しく周囲にあった土塁は破壊されたと思われる。


確かに妙義山城の縄張りは、最終形の塩田城や小岩嶽城のような宿城にそっくりである。
段々畑を耕す体力と兵力を三村氏が有していたかというと、別問題のような気がする。

難癖つけて取り潰した三村氏を陥れる文献上の操作が武田によって為されたと見てはどうであろうか。

勝者の都合のいいように歴史を書き換えた・・・このことである。


武居城 (53)
主郭北側の堀切㋒。熊笹の生い茂る悲惨な状況である。


城域の北尾根には数本の堀切が走り、往時は大手道だったというので、腰の高さ以上もある熊笹の大群へ突入する。

足元が見えない恐怖ってある訳で、「蛇が来るか?」「クーさんが歩腹前進で来るか?」「タランチュラの猛攻に耐えるか」って恐れおののく・・・(汗)


武居城 (57)
北尾根の重要郭の写真。前後に堀切があるのだが、「笹ばっかり・・ってジャイアントパンダかい!!」

「ええい、冠木門など作らんで笹を除去せんかい!!長野県安部知事!!」

怒り心頭とはこのことであった・・・(笑)

藪と笹の撮影会など、しとうは無かったのである・・・。

武居城 (59)
本郭南側には投石用の河原石が現存する。

武居城 (32)
郭2(20×17)には、志半ばで倒れた大堀切の説明板が横たわっている(合掌)

武居城 (35)
上巾15mの堀切㋑。


武居城 (38)
二重堀切を介して「重ね城」へ続く搦め手。

弘治元年(1555)一月、甲斐国一蓮寺に論功行賞の名目で招かれた三村忠親と主従二百十三人は武田軍により謀殺されたというが、晴信より命令を受けた武田典厩、甘利左衛門尉は抵抗する三村一族と合戦に及んだと云う。

事の真相は闇の中であるが、武骨者の信濃武将が易々と武田軍に討たれるなど論外であろう。

主家滅亡後、長親の弟で岡田の伊深城主後庁出羽守の養子になっていた久親が洗馬地方を治めたという。


武居城は武田が滅びた後に旧領を回復した小笠原貞慶により改修を受けたものと思われる。

木曾への間道を抑え、やがて木曾へ侵攻していく貞慶の中継拠点として利用されたのだろうか。

武居城 (47)


横堀と畝傍状竪堀の組合せで、記憶に残る名城として甦った武居城に拍手喝采である。


≪武居城≫ (たけいじょう 洗馬城) 

標高:873m 比高78m
築城年代:不明
築城・居住者:三村氏
場所:東筑摩郡朝日村西洗馬城山
攻城日:2012年8月25日 
見どころ:横堀、畝傍状竪堀、二重堀切など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:10分
注意:藪だらけなので探索には細心の注意が必要
付近の見どころ:付近に重ね城、旭城など
参考文献:「図解山城探訪 第五集 松塩筑史料編 宮坂武男著」「探訪 信州の古城  湯本軍一監修」

武居城 (72)
北方面から見た7武居城全景。



















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Posted on 2012/09/01 Sat. 00:03 [edit]

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