らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0919

田沢城 (安曇野市豊科田沢)  

◆交通の要衝を抑えた光城の出城◆

日曜日は下見と称して筑北村の安坂城の対面にある山崎砦に出掛けた。

服装は軽装だったし攻める気などなかったのだが、「比高100mなら いっちょ行きますか!!」(笑)

「間違いとキ印は紙一重ってか」薄暗く気味の悪い山中を彷徨うとは夢にも思わなかったが、続きはそのうち掲載しましょうか・・・(汗)

今回ご紹介するのは田沢城。なんと、WEB上での城跡の写真は初公開みたいです。何でかなあー??

田沢城 (1)
登城口にある見落としそうな手作り看板。

この城、光城の南へ下る支脈の尾根上にあり、国道19号線の田沢北の信号機を県道57号線に入り一個目の信号を過ぎた路側帯に登り口がある。田沢城経由で光城に登れて登山道も整備されている。

田沢城 (2)
塹壕のような登山道。中塔城の悪夢再現か(笑) 急斜面を這う大手道は雨水による浸食で排水溝になったらしい。


真面目に登る事が嫌いなので、ワザとルートを南に迂回して尾根を直登してみた。

思いっきりキツかった・・・・(ってか、やはり馬鹿である)攻めるなら西側の出城付近を確保するべきだろう。

田沢城見取図

縄張りは、本城である光城や塔ノ原城には規模も防御性も遠く及ばないが、出城としては秀逸である。

先日紹介した小坂城の出城だった池の入城よりも手が込んでいる。


田沢城 (12)
急峻な南の尾根先は段郭と塹壕(大手道)による組合せで横矢を可能としている。

田沢城 (9)
大手道は堀切として機能している(自然浸食により往時よりも深さが増しているのも事実であろう)

基本的な構造としては連梯式で、尾根の先に向けて郭を連続させる手法だが、主郭の東側に武者溜まりともいえるべき郭4を置く事で挟撃を可能としている。

田沢城 (67)
城域で一番の面積を誇る郭4。長屋造りの小屋掛けも可能な広さである。


田沢城 (18)
TVアンテナの中継塔のある場所が郭3。(郭2より撮影)

田沢城 (19)
連続してチョー狭い郭2。

チョッとした土塁の虎口から本郭(27×20)に入る。

周囲は高土塁で囲まれていたようだが、現在は南北にその遺構が残る。

田沢城 (23)
本郭南側と背後の土塁。石積みは残念ながら後世の社跡の残骸で往時のものでは無いという。


田沢城 (26)
出城の本郭といってもかなりの巾と高さがある土塁。背後の堀切の深さを稼いでいるのが分かる。


さて、田沢城が滋野系海野氏の一族である光氏の光城の出城だったというのが通説であるが、田沢氏は存在したのか?

以前、御代田町の広戸城でお世話になった武舎秀雄さんのHP我が家の歴史-「海野氏研究郷土の歴史」に謎解きの答えがあったので引用させていただく。

田沢城 (32)
主郭背後の堀切㋑。三重堀切の最初らしく西尾根に鋭角な深さとカーブを伴う。

以下は、武舎秀雄氏のHPから抜粋引用させていただいた。会田氏、塔ノ原氏、光海野氏については氏の本文を読んで頂きたい。

「海野幸継四男の田沢四郎幸国は、筑摩郡田沢に、鎌倉時代中期に兄弟などとともに、この地方の嶺間から川手方 面に進出して、各地に定着し、在名をとって、それぞれの苗字とし、子孫を反映させていったのである。

 小県郡から筑摩郡への浸出の理由は、海野氏が、本領の地、新補地頭として、この地方を鎌倉幕府より補任され て、その子弟を派出するに至ったものと推考される。

 田沢の地は、犀川に面する川手方面の郷村のうち、その最南端を固める重要な最前線であった。
 田沢氏は、この地で定着に際しては治政・防備・交通など都合の良いところに居館を構え、また祈願時や氏神を 祭ったと考えられる。

 山城にしても元禄11年(1698)の国絵図書上の際にも隣村、光の仁場城(光城の別名)をもって田沢城とし、享 保9年(1724)の 信府統記にも、この説を踏襲しているが、しかし田沢地籍(田沢駅東の山上)には田沢城跡は存 在している。
 
 田沢氏は、室町時代初期応永7年(1400)9月更級郡大塔の合戦には、時の信濃守護小笠原長秀を追討する側にあ った宗家小県郡の海野幸義の旗下として同族の会田・塔原・光・大葦・刈谷原氏などと共に参戦し、小笠原軍を 撃破し、小笠原氏は京都へ敗走している。
 これ以上史料上から全く姿を消している。田沢氏滅亡後いつの日か花村氏に替わったらしく、室町時代末の世に 言われる戦国時代になると花村氏が現われてくる。天正11年(1583)に武士を捨て民間に下り農となってい   る。」

素晴らしい調査報告書である。小生のようなものぐさ人間には到底及びもつかない膨大な時間と労力に対して敬意を表したい。

田沢城 (34)
西斜面から見た堀切群(補強として㋑と㋒の間に竪掘を入れているのがわかる)


田沢城 (35)
西斜面を大蛇の如く這う長さ100m以上ある堀切㋑は圧巻である。

この城が、光城の単なる出丸ではなく田沢氏の居城だったという説を裏付けるような平削地が西斜面に存在する。

田沢城 (38)
見取図でも示しているが、堀切㋒(竪掘)の先には「出城」という平削地が確認出来る。


恐らく田沢氏はこの場所に居館を築き、田沢城を詰の城としていたのでは無いだろうか?
西の沢筋を水の手とすれば、平素の生活には何ら問題が無いはずで、見晴らしも良かったと思われる。


田沢城 (42)
郭5。右側には土塁の高みが見られる。

田沢城 (51)
かなり埋もれているが郭5の背後の堀切㋔。


それほど技巧を凝らした縄張りでは無いが、縄張りの雰囲気は光城、塔ノ原城に良く似ている。

後詰を光城としているので、イザとなったら急峻な尾根を辿って逃げ込めば良いのである。

光城に続く北側の尾根の処理も適当で、食い違いに堀切を穿っただけである。

田沢城 (55)
北尾根の処理。右の堀切は西側斜面の出城郭へ続く通路となっている。


本郭付近は近年まで竹藪に覆われ、光城までの登山道が整備されたのも最近になってからの事らしい。

麓からの比高160mとそれほど高くない場所に、これだけの遺構があれば訪れる価値は充分だと思う。

小生が訪れた日も山の持ち主の方が登山道を整備されていました。頭の下がる思いでした。


≪田沢城≫ (たざわじょう 光小城) 

標高:724m 比高160m
築城年代:不明
築城・居住者:田沢氏
場所:安曇野市豊科田沢
攻城日:2012年9月16日 
見どころ:土塁、三重堀切など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:15分
注意:止め山なので松茸シーズンは注意すべし
付近の見どころ:光城、上ノ山城、平瀬山北の城など
参考文献:「図解山城探訪 第六集 安曇史料編 宮坂武男著」「我が家の歴史-海野史研究郷土の歴史 武舎秀雄氏」

田沢城遠景
国道19号線から見た田沢城。











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Posted on 2012/09/19 Wed. 20:44 [edit]

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