らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
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千見城① (大町市美麻千見) 
◆戦国末期まで争奪戦の繰り返された境目の要害城◆
上伊那の城の在庫ネタは高遠城ぐらいしかないので、安曇郡の攻城戦記に戻る事にする・・(汗)
同迷軍の「ていぴす」殿のブログ「長野県の歴史を求めて」が上伊那に攻略軍を展開しているので、相互不可侵条約を破る訳にはいかない・・(笑)
千見城入口にある案内図。
旧美麻村千見(現在の大町市美麻)にある千見城(せんみじょう)は、天正十年(1541)に天正壬午の乱が勃発した際に、小笠原貞慶と上杉景勝が熾烈な領土争いを展開した水内郡と安曇郡の境目の城である。
信州の山城群でも幾度の戦禍にまみれた希有な山城なのだが、立地条件の険しさ故にWebでもあまり公開されていないのが現状のようだ。(クーさん注意報も誇大宣伝されているというが)
山麓を流れる土尻川。
「ジッちゃんの名にかけて攻め落とすしかあるまい・・・・」
しかし、小生は父方も母方の祖父も生まれる前に亡くなっているので顔も名前も知らない・・(爆)
一人三役で演じた軍議の結果、同迷軍のていぴす殿に支援を依頼し客将として相模より馬念殿をお招きした。
クーさん恐れるに足らず・・このことである(笑)

千見は「狭い谷間」を意味しているという(図解山城探訪の宮坂氏解説より)
その千見集落の北側の険しい岩山の上に千見城があり、水内郡と北安曇を抑える要衝であった為に戦国時代には武田vs上杉、武田氏滅亡後は小笠原貞慶vs上杉景勝が争奪戦を繰り広げた地となった。
仲場と呼ばれる裏巡回路の沢筋。
案内図によれば「表巡回路」(千見公民館からの登路)と「裏巡回路」(仲場への沢を詰めて北西の尾根への登路)があるようだが、「人生は裏街道こそ本懐」と信じる我々は迷わず裏手を攻め上がる事にした・・(笑)
以下は今回の攻略図である。続くものあらばご参考にされるのも良かろう。(全行程ゆっくり巡り3時間程度)
A・B・C全て見れるコース。大町市に採用申請中・・ウソです、笑)
【千見城 A地区】
本来は一城一記事がモットーであるが、城域の特殊性もあるのでA・B・Cの三地区分割で詳細をお伝えする事にした。ご容赦願いたい。

仲場という場所には廃屋の跡と墓所があった。そこから右手に折れて沢筋を詰めて北西尾根の稜線に辿り着く。
城の背後で搦め手方面と思われるが確証は無い。ここから恐ろしい急斜面を登るのだが、堀切㋐と㋑の間には橋頭堡がありその先は更に高さ10m以上の岩壁が城域への侵入を阻む。
堀切㋐
鉄塔保安道の階段を登る馬念殿。
橋頭堡から見下ろす堀切㋑。
屏風のような岩壁が連続し傾斜もキツイ北斜面からの攻城は不可能だろう。
「安全は全てに優先する」(笑)
こんな所きとうなかった(涙)
まあね、そうは言っても困難を乗り切ると雄大な景色のご褒美があるわけで・・・。
千見城で唯一視界が開ける場所である。
そんなこんなでようやく標高831mの頂きに到達する。往時は見張り台と烽火台だったと思われる。
この南側が主郭を含む千見城の主要部なのだが、山を削った大掛かりな土木工事の跡があり驚いた。
削平された頂部。
頂部から東へ落差のある塁壁。
主郭を守る屏風として削られたのが分かる。
説明板の立つ場所は犬走りか?
A地区の見取図には郭1・郭2・郭4として記したが、微妙な段差や工事途中で放棄されたような場所があるのでA地区全体を本郭として捉えたほうが分かりやすのかもしれない。
東尾根に続く塁壁。
堀切㋒。東尾根の先は犬戻りと呼ばれる崖となるのでこの程度でも充分か。
南東斜面の堀切㋔。
ていぴす殿と横堀㋓。斜面に対して土塁を付けている。
いかん、またツラツラと写真を並べて文章力の無さをカバーしようとしている・・・(汗)
小屋掛け出来そうなのは郭2と郭4と想定される。
郭4(20×15)
意味不明な盛土が二ヶ所ある郭2(25×40)
さて、A地区をザーっと駆け足で見てみましたが如何だったでしょうか?
えっ、写真ばっかで良くわかんない?・・・(汗)
城歴や争奪戦について記載して欲しい・・・(汗)
まあ、それは次回以降のお楽しみということにしましょうか・・(笑)
B地区から見上げたA地区方面。比高差は30mだが切岸として加工された急斜面は攻城兵の体力を奪うに充分である。
怒涛のB地区攻防戦は次号でご紹介!
上伊那の城の在庫ネタは高遠城ぐらいしかないので、安曇郡の攻城戦記に戻る事にする・・(汗)
同迷軍の「ていぴす」殿のブログ「長野県の歴史を求めて」が上伊那に攻略軍を展開しているので、相互不可侵条約を破る訳にはいかない・・(笑)

旧美麻村千見(現在の大町市美麻)にある千見城(せんみじょう)は、天正十年(1541)に天正壬午の乱が勃発した際に、小笠原貞慶と上杉景勝が熾烈な領土争いを展開した水内郡と安曇郡の境目の城である。
信州の山城群でも幾度の戦禍にまみれた希有な山城なのだが、立地条件の険しさ故にWebでもあまり公開されていないのが現状のようだ。(クーさん注意報も誇大宣伝されているというが)

「ジッちゃんの名にかけて攻め落とすしかあるまい・・・・」
しかし、小生は父方も母方の祖父も生まれる前に亡くなっているので顔も名前も知らない・・(爆)
一人三役で演じた軍議の結果、同迷軍のていぴす殿に支援を依頼し客将として相模より馬念殿をお招きした。
クーさん恐れるに足らず・・このことである(笑)

千見は「狭い谷間」を意味しているという(図解山城探訪の宮坂氏解説より)
その千見集落の北側の険しい岩山の上に千見城があり、水内郡と北安曇を抑える要衝であった為に戦国時代には武田vs上杉、武田氏滅亡後は小笠原貞慶vs上杉景勝が争奪戦を繰り広げた地となった。

案内図によれば「表巡回路」(千見公民館からの登路)と「裏巡回路」(仲場への沢を詰めて北西の尾根への登路)があるようだが、「人生は裏街道こそ本懐」と信じる我々は迷わず裏手を攻め上がる事にした・・(笑)
以下は今回の攻略図である。続くものあらばご参考にされるのも良かろう。(全行程ゆっくり巡り3時間程度)

【千見城 A地区】
本来は一城一記事がモットーであるが、城域の特殊性もあるのでA・B・Cの三地区分割で詳細をお伝えする事にした。ご容赦願いたい。

仲場という場所には廃屋の跡と墓所があった。そこから右手に折れて沢筋を詰めて北西尾根の稜線に辿り着く。
城の背後で搦め手方面と思われるが確証は無い。ここから恐ろしい急斜面を登るのだが、堀切㋐と㋑の間には橋頭堡がありその先は更に高さ10m以上の岩壁が城域への侵入を阻む。



屏風のような岩壁が連続し傾斜もキツイ北斜面からの攻城は不可能だろう。


まあね、そうは言っても困難を乗り切ると雄大な景色のご褒美があるわけで・・・。

そんなこんなでようやく標高831mの頂きに到達する。往時は見張り台と烽火台だったと思われる。
この南側が主郭を含む千見城の主要部なのだが、山を削った大掛かりな土木工事の跡があり驚いた。




A地区の見取図には郭1・郭2・郭4として記したが、微妙な段差や工事途中で放棄されたような場所があるのでA地区全体を本郭として捉えたほうが分かりやすのかもしれない。




いかん、またツラツラと写真を並べて文章力の無さをカバーしようとしている・・・(汗)
小屋掛け出来そうなのは郭2と郭4と想定される。


さて、A地区をザーっと駆け足で見てみましたが如何だったでしょうか?
えっ、写真ばっかで良くわかんない?・・・(汗)
城歴や争奪戦について記載して欲しい・・・(汗)
まあ、それは次回以降のお楽しみということにしましょうか・・(笑)

怒涛のB地区攻防戦は次号でご紹介!
Posted on 2012/11/23 Fri. 11:39 [edit]
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