らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
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三日市場城 (北安曇郡白馬村神城) 
◆二重横堀に放射状の竪掘を組み合わせが見事な沢渡氏の居城◆
白馬地方を代表する山城である。
ここ半年の間「見たい」「行きたい」「彷徨いたい」という思いばかりが募って悶々としていた・・
(やはりビョーキが進行している・・・笑)
先日、馬念様に無理をお願いしてご案内していただくことが出来た。
城の登り口に鎮座する神明社(国重要文化財)
仁科三湖の北橋にある青木湖のほとりから佐野坂を越えると、四か庄平(しかじょうだいら)という盆地になる。
盆地の東側に位置するのが三日市場集落で、ここに沢渡氏(さわどし)の居館があり東の独立峰のような山頂に三日市場城(大宮城)がある。
※御屋敷という地籍に居館があったようだが、現在は遺構すら残っていないという
北にある茨山城から見る三日市場城。
沢渡氏がいつ頃仁科氏から分かれたかは不明であるが、数多い支族の中でも重きをなしていたようで、その所領については現在の白馬村南部の佐野、沢渡、堀の内付近であったという。

四か庄平の城砦群(国土地理院1/25000引用)
その後、天文年間に信濃に侵攻してきた武田方に降り配下として引き続きこの地方を所領し、武田氏滅亡後は小笠原貞慶に従い、小倉藩小笠原家の家臣として明治維新を迎えたという。
沢渡十人衆と呼ばれる在地土豪が沢渡氏に仕えていて、周辺に点在する砦や物見を守っていたとされる。

三日市場城の大手は神明社のすぐ南の尾根道で、城は標高875m、麓からの比高125mである。
傾斜の緩い北側の斜面に部分的に二重の横堀を巡らせ、十条近くの竪掘を組み合わせている。
主郭の周囲を段郭で固め、隣接する郭2は北へ向けてL字で二重となる横堀で遮断されている凝った縄張りを持つ。
最初に現れる大手筋の堀切。
左右に堀切を入れた郭4。
防御の厳しい郭3。
武者溜まりを想定する郭6。(40×10)
大手筋にあたる南側は段郭を置いて竪掘を配置する事で動きを制御しているのが見て取れる。
主郭を1とするか2とするかは難しいところであるが、指令所とすれば標高の高い場所にある郭1であろう。
北側にのみ土塁を置く主郭1。
堀切㋐と周囲の土塁。
郭2から見た堀切㋐と高土塁。
郭2の背後の高土塁は、堀切の高さを稼ぐ効果と共に、外から郭内部を目隠しする効果がある。
堀切㋑。
斜面に残る井戸跡。
東尾根の最終堀切㋒。
さて、三日市場城はその城館と共に天正年間に武田氏により破壊されたという伝承があるが、どうであろうか?
信玄は仁科宗家に対して上杉への寝返りの嫌疑を掛けて滅亡させると、その名跡を盛信に相続させ仁科氏を名乗らせている。
直轄地における懐柔策として信玄の用いる常套手段であり、信越国境の警備を引き続き盛信が担当していた。
城域北東の堀の処理。
段差を付けた北側二重横堀の遺構。
青木湖の湖岸に位置する森城が強大な軍事拠点として機能していたので三日市場城は捨て置かれたのであろう。
甲越同盟が成り、天正9年(1581)に織田・徳川の包囲網に対する軍事再編成で仁科盛信は高遠城へ。
翌天正十年に甲州征伐で武田が滅亡すると安曇地方は筑摩と共に木曾義昌に加増されるが、本能寺の変で織田氏が斃れると天正壬午の乱が勃発。安曇地方も例外なく徳川・北条・上杉の草刈り場となってしまう。
北斜面に放射される竪掘。
最大の防御となる北側斜面の処理。
木曾⇒上杉⇒小笠原貞慶と目まぐるしく変わる支配下で、沢渡氏も小豪族の悲哀を感じていたのかもしれない。
最終的に貞慶の配下となった沢渡氏は上杉との国境警備で重要な役割を果たすようになり、三日市場城も再興され現在の姿に改修されたのであろうか。
城域南斜面に突き出た段郭。
朝日村にある武居城と比高や標高、縄張が良く似ている。この地方を代表する秀逸の山城であり、大事に保存してもらいたいものである。
≪三日市場城≫ (みっかいちばじょう 沢渡城、宮原城、大宮城)
標高:875m 比高125m
築城年代:不明
築城・居住者:沢渡氏
場所:北安曇郡白馬村神城三日市場
攻城日:2012年10月20日
見どころ:二重横堀、畝傍状竪堀、堀切など
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:20分
注意:特に無し
付近の見どころ:神明社、白馬山城ネットワーク
参考文献:「図解山城探訪 第六集 安曇史料編 宮坂武男著」「探訪 信州の古城 湯本軍一監修」

白馬地方を代表する山城である。
ここ半年の間「見たい」「行きたい」「彷徨いたい」という思いばかりが募って悶々としていた・・
(やはりビョーキが進行している・・・笑)
先日、馬念様に無理をお願いしてご案内していただくことが出来た。

仁科三湖の北橋にある青木湖のほとりから佐野坂を越えると、四か庄平(しかじょうだいら)という盆地になる。
盆地の東側に位置するのが三日市場集落で、ここに沢渡氏(さわどし)の居館があり東の独立峰のような山頂に三日市場城(大宮城)がある。
※御屋敷という地籍に居館があったようだが、現在は遺構すら残っていないという

沢渡氏がいつ頃仁科氏から分かれたかは不明であるが、数多い支族の中でも重きをなしていたようで、その所領については現在の白馬村南部の佐野、沢渡、堀の内付近であったという。

四か庄平の城砦群(国土地理院1/25000引用)
その後、天文年間に信濃に侵攻してきた武田方に降り配下として引き続きこの地方を所領し、武田氏滅亡後は小笠原貞慶に従い、小倉藩小笠原家の家臣として明治維新を迎えたという。
沢渡十人衆と呼ばれる在地土豪が沢渡氏に仕えていて、周辺に点在する砦や物見を守っていたとされる。

三日市場城の大手は神明社のすぐ南の尾根道で、城は標高875m、麓からの比高125mである。
傾斜の緩い北側の斜面に部分的に二重の横堀を巡らせ、十条近くの竪掘を組み合わせている。
主郭の周囲を段郭で固め、隣接する郭2は北へ向けてL字で二重となる横堀で遮断されている凝った縄張りを持つ。




大手筋にあたる南側は段郭を置いて竪掘を配置する事で動きを制御しているのが見て取れる。
主郭を1とするか2とするかは難しいところであるが、指令所とすれば標高の高い場所にある郭1であろう。



郭2の背後の高土塁は、堀切の高さを稼ぐ効果と共に、外から郭内部を目隠しする効果がある。



さて、三日市場城はその城館と共に天正年間に武田氏により破壊されたという伝承があるが、どうであろうか?
信玄は仁科宗家に対して上杉への寝返りの嫌疑を掛けて滅亡させると、その名跡を盛信に相続させ仁科氏を名乗らせている。
直轄地における懐柔策として信玄の用いる常套手段であり、信越国境の警備を引き続き盛信が担当していた。


青木湖の湖岸に位置する森城が強大な軍事拠点として機能していたので三日市場城は捨て置かれたのであろう。
甲越同盟が成り、天正9年(1581)に織田・徳川の包囲網に対する軍事再編成で仁科盛信は高遠城へ。
翌天正十年に甲州征伐で武田が滅亡すると安曇地方は筑摩と共に木曾義昌に加増されるが、本能寺の変で織田氏が斃れると天正壬午の乱が勃発。安曇地方も例外なく徳川・北条・上杉の草刈り場となってしまう。


木曾⇒上杉⇒小笠原貞慶と目まぐるしく変わる支配下で、沢渡氏も小豪族の悲哀を感じていたのかもしれない。
最終的に貞慶の配下となった沢渡氏は上杉との国境警備で重要な役割を果たすようになり、三日市場城も再興され現在の姿に改修されたのであろうか。

朝日村にある武居城と比高や標高、縄張が良く似ている。この地方を代表する秀逸の山城であり、大事に保存してもらいたいものである。
≪三日市場城≫ (みっかいちばじょう 沢渡城、宮原城、大宮城)
標高:875m 比高125m
築城年代:不明
築城・居住者:沢渡氏
場所:北安曇郡白馬村神城三日市場
攻城日:2012年10月20日
見どころ:二重横堀、畝傍状竪堀、堀切など
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:20分
注意:特に無し
付近の見どころ:神明社、白馬山城ネットワーク
参考文献:「図解山城探訪 第六集 安曇史料編 宮坂武男著」「探訪 信州の古城 湯本軍一監修」

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Posted on 2012/11/18 Sun. 11:03 [edit]
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