らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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福与城 (上伊那郡箕輪町福与)  

◆武田氏も落とせなかった堅守の城◆

おかげ様で(?)、このブログも長野県の区分けでいう「北信(ほくしん)」「東信(とうしん)」「中信(ちゅうしん)」はなんとか充実した城攻め記録になりつつあるが、「南信(なんしん)」と呼ばれる伊那・飯田・木曾地方は全く手つかずの状態である・・・(汗)

正直なところ、上田から攻めるには遠いのである(笑)

かといって言い訳もみっともないので、木曾の王滝城に続いて伊那の福与城について掲載してみようと思う。

福与城 (1)乳母屋敷跡にある訪問者用の駐車場。

福与城は箕輪町福与地区の北西に位置し、天竜川の左岸段丘上に築かれた城である。

この城が歴史上で有名になったのは、武田軍が天文十四年(1545)に伊那谷へ侵入した際、上伊那の諸氏を結集して五十日間に及ぶ籠城戦を展開した事による。

福与城 (3)本郭へ向かう道の両側は南城の郭址。

この城が武田軍相手に持ちこたえられたのは、その地形と縄張りであると思われる。

福与城縄張図①三方急の地形で攻め口は搦め手方面のみ。

「城正面」とか「後ろ堅固」という堅城の縄張り要件を示す言葉が使われるが、福沢城の立地条件は東側が鎌倉沢と呼ばれる断崖に続き、城の西と南側は天竜川を臨む深い谷になっていて、攻め口は僅かに地続きの東南方面だけである。

まさに「後ろ堅固」の要件を満たしているという点では、遠江の小山城、諏訪原城に地形が良く似ている。

福与城 (4)堀に土橋?土管?(笑)

現在の史跡には巨大な空堀に土橋状の通路と土管が構築されているが、後世の造作物。堀底から主郭手前の段郭に登る通路は「勘解由坂」と呼ばれていたらしい。

福与城 (5)北の鎌倉沢へ続く堀切㋑。

福与城 (6)堀切㋑は本郭と二の郭の間の堀切(現在は埋没)に連結していたのだろう。

城域で「本城」と呼ばれる部分は、本郭と二の曲輪、姫屋敷で構成され、周囲を堀切で守られていたと推定される。

福与城 (10)本郭南側の腰郭。

福与城 (11)主郭の東端には物見櫓台の跡らしき高台がある。

三方を天然の沢と断崖で守られた福与城を攻めるには南東の搦め手方面だけであり、防御施設もこの方面に集中していたと推測される。

福与城 (77)「ふるさと農道」側が搦め手で堀切が推定される。

搦め手から入ると一段高い場所に「権次郭」と呼ばれる場所があり、藤沢頼親の弟の権次郎を配して守りを固めた場所だと伝わる。

福与城 (59)権次郎郭。


福与城 (55)宗仙屋敷。権次郎郭の北西に隣接している。

一族郎党の名前を冠した郭には、戦国期の緊張感が甦るようである。


福与城 (13)本郭跡。

藤沢氏の出自は諏訪神氏の出自とするのが定説らしいが、相州藤沢の住人藤沢義親の枝流藤沢行親が建武の功により箕輪六郡を賜り福与に城を築き住すという説もあるらしい。

福与城 (16)本郭から見た堀切㋐と北城。

福与城 (18)加工度の高い堀切㋐。厳しい防御だ。

【福与城の戦い】

「高白斎記」によれば、天文十四年(1545)四月十一日「高遠城ニ向御出馬」とあり、十五日に杖突峠に陣所を置き高遠城に向かった。高遠頼継は戦いもせず十七日には自落し、高遠には武田の陣所が置かれた。ここから福与城の戦いが始まる。

四月二十日、高遠城を発った武田軍はその日のうちに箕輪に着陣し、直ちに城攻めが行わたものと思われる。二十九日には武田方の将の一人であった「鎌田長門守討死」とあり、この日は激しい攻防戦があったと推測される。

福与城 (35)広大な二の曲輪。

この戦いには松本と下伊那の両小笠原が参戦しているが、これは頼親が小笠原長時の妹を正室を迎えていることによる。

五月に入っても福与城の守りは固く城は容易に落ちそうもなかった。そこで武田勢は小笠原長時の後詰めの本拠地である龍ヶ崎城(辰野町宮所)の攻略にかかった。激しい攻防戦のあと、六月上旬には城は落ち、長時軍は松本へ引き揚げてしまい、また、伊那軍まで出陣していた下伊那の小笠原軍も十分な連絡が取れず戦わずして帰陣してしまった。

この戦況において、さすがの頼親も戦いを終結させる方策を考えなければならなかったと思われる。

福与城 (36)北城との間を遮断する堀切㋐。

武田軍にしても、今川方に援軍まで求めるような決して楽な戦いではなく、しかも二ヶ月近くに及ぶ攻防戦は予想もしなかったであろう。

戦い終結の協議「和ノ義」は、六月八日頃とされ、その時の様子は次のように記されている。

「六月十日、藤沢二郎和ノ義落書、十一日藤沢二郎身血、其上藤沢権次郎人質トシテ穴山陣所へ参ル、敵城放火」

福与城 (37)姫屋敷。

頼みにしていた小笠原軍も引き揚げてしまい、孤立無援となった福与城は開城ののち焼却されてしまった。
後詰め無き籠城戦など犬死に等しく諦めたのあろう。

伊那谷の咽喉の位置にあった福与城での戦いは、伊那谷全体の諸氏にとっても重要な意味を持つものであった。

また、五十日に及ぶ籠城戦を守り抜いたこの戦いは、上伊那武士の力を示したものであり「妙法寺記」などの甲州の記録にも、二ヶ月近くも城を攻めたが「サレドモ城落チ申サズ候」と記されている。

福与城 (38)二の曲輪から見た市街地方面。

その後、藤沢頼親は武田に仕えるが、天文十七年(1549)上田原の合戦で武田が敗北すると再び小笠原長時に仕え一時期はうらぶれた長時さんが世話になったという三好長慶の元に身を寄せたという。

福与城 (44)二の曲輪から見た主郭方面。

天正十年三月に武田氏が滅亡すると、藤沢頼親は再び箕輪の地に戻り領主として復帰し、福与城の南東約1㎞の新たに平城の田中城の築城を始める。

主家筋である小笠原貞慶は徳川の後ろ盾で深志城に復帰し頼親もその恩恵に預かっての事だろう。

しかし同年七月、北条氏直の大軍が諏訪を制圧し徳川が撤退に追い込まれると、徳川は筑摩方面の実効支配を企てたために貞義は北条氏と誼を通じ徳川に叛く。
主家の北条氏への従属表明で徳川方だった藤沢頼親も北条側につくが、隣接する徳川方の高遠城の保科正直よりの降伏勧告を拒否したために、同年十一月保科に攻め込まれて落城、藤沢頼親は自刃し、孫の左門は小笠原貞慶の元へ放逐されたという。(「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」 平山優著 参照)

田中城は六角形の空堀に土塁を持つ異形の城だったらしいが、完成を見ることなく終わり、現在は土塁が一部残るだけだという。

福与城 (48)どうしても撮影したかった土管(おバカ!)

話は脱線したが(笑)、高白斎記には天文十八年(1549)七月に箕輪城に着いた武田晴信が鍬立てをしたとある。

福与城の説明板にはその城が福与城であるとしているが、果たしてそうであろうか?

武田氏は敵の城を占領しこれを利用する場合は縄張りを改めているケースが大半であるという。

高遠城も大島城も例外ではなく大規模な改修が行われている(船山城、飯島城も手が入っているとも)

手を入れるつもりなら、開城後に焼き払う必要など無いし縄張りも手を加えた跡など見られない。
(まあシロウトの小生が偉そうに言えるべき事ではないが・・・汗)

福与城 (54)権治曲輪から見た乳母屋敷。

30年後に復帰した藤沢頼親も恐らく利用しなかったのだろう。

では武田氏が鍬立てしたという「箕輪城」とは何処にあったのか?

福与城の西1.5kmに養泰寺があり、その寺の墓所のある丘も箕輪城と呼ばれているが周囲を土塁で囲んだ単郭のある古めかしい砦で、とても武田の縄張りでは無い。

「後究に待つ」とはこのことであった(笑)

福与城 (66)南城の西先端の郭。

福与城 (69)道路で改変を受けた竪掘㋒

福与城 (71)巨大な沢となり西斜面に落ちる堀切㋑

福与城 (74)「しんたく洞」と呼ばれる堀切㋐の西斜面

ツラツラと写真を並べてしまったが、上伊那における中世城郭の遺構が残る保存状態の良い城です。

信玄公を相手に50日間も籠城したなんて、信じられない広さですが・・・・。

福与城 (82)城の東側の鹿垣公民館よりみた全景。

≪福与城≫ (ふくよじょう 箕輪城 鎌倉城) 

標高:715m 比高50m
築城年代:不明
築城・居住者:藤沢氏
場所:上伊那郡箕輪町福与
攻城日:2012年10月11日 
見どころ:堀切、郭群など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:駐車場より5分
注意:畑は無断侵入しないこと。
付近の見どころ:養泰寺にある箕輪城、綿半センター近くの田中城
参考文献:「探訪 信州の古城 湯本軍一監修」「「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望 平山優著」

福与城 (84)天竜川より見た福与城遠景。












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Posted on 2012/11/21 Wed. 17:46 [edit]

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