らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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三日城 (長野市豊野石)  

◆髻山城の陣城◆

この城、過去に2回チャレンジしたのだが探索に失敗している。

石村の「殿屋敷跡」は長秀院の横に標柱があるのですぐに分かったのだが、石村城も三日城も「周辺住民への聞き込み」という初動捜査を怠ったのが原因である・・・(笑)

なんせ二回目の探索に至っては怪しいと思った尾根を登り始めたのだが諦めてしまった。(実はその上が城跡だった)
挙句の果てに三念沢を上まで登り、途中にあるダム湖でカモを見ながら途方に暮れるという有り様だった(汗)

石村城 (3)石村殿屋敷跡。

髻山城の陣城として有名な砦なのだが、全国的な知名度は低くてWEBでも掲載しているのは「川中島の戦い 史跡ガイド」ぐらい。添付地図も酷く大雑把なので場所も特定出来ずにいた。

三日城(36)過去に何度も怪しいと思ったこの山こそが三日城だった。

長野市と飯綱町の境界線の丘陵の頂点にあるのが髻山城で、三日城は東南に降った位置にあり独立峰のように見える小山の頂上に築かれている。

古くからこの場所は飯山へ向かう北国街道を抑える要衝であり、甲越合戦の頃は武田VS上杉の争奪戦の舞台となったことは周知の事実であろう。

三日城(豊野)見取図①


三念沢の砂防ダムの上流側に城跡への登城路があったようだが、ハッキリしないので三差路の手前の尾根を強引に直登する。結構な急斜面だが、比高60m程度なら楽勝である。

三日城 (3)見取図上の物見郭跡。


三日城 (2)堀切㋒。竪掘となっている。


途中にはクーさんか猪殿の遊んだ痕跡がありヤバイ気もしたが、出逢ったらその時はその時として突き進む(笑)

ほどなく城域に入ると朽ち果てた標柱がある。

三日城 (13)イイ感じの古びた標柱。

縄張図でも分かる通り、主郭+副郭にL字の堀切を穿った単純な構造である。

三日城 (15)二代目の説明板。

説明板によれば「江戸時代の書物 信濃のさざれ石 には天文十六年(1547)十月、上杉謙信が髻山の城を築いた際、普請が完成する間の仮の砦として、甘粕近江守数直が築いたと記されており、僅か三日で完成したとも云われている」

三日城 (7)郭1の石祠と標石。

不可解なのは北東に向けての削平地で、城跡の遺構というものが全くないのである。

地元の方の話では、数年前までは子供たちのキャンプ場として整備されたらしく東小屋もその時に建てられたものだという。

近年になり熊が出没するとの事とで利用されなくなったというが、往時はどこまでが城域だったか断定するのは難しくなっている。

三日城 (18)

たった三日間で普請が完成したとは思えないが、陣城としては秀逸な作りである。

三日城 (5)郭2(副郭)

髻山城が武田軍により攻略された後は烽火台として機能したように思われる。
飯山口への見張り台としては重要な繋ぎの場所であった。

三日城 (26)L字に屈折している横堀㋐。

三日城 (28)南西の斜面へ落ちる竪掘㋑。

実に簡素な造りである。

いざとなったら髻山城へ尾根伝いに逃げれば良いのだからこの程度で十分だったのであろう。

三日城 (23)北西方面から見た横堀㋐と周囲の土塁。

取るに足らないような小さな砦でも、謙信さんの命令で築かれた由緒正しき陣城である(笑)

三日で作ろうが半年かかろうが、お百姓さんの作った城や砦である。

その歴史を後世に伝えるのが使命だと思う次第なのであります・・・。

三日城 (19)綺麗に削平された北西の切岸。どこまでを城域と見るのか疑問ではあるが。


≪三日城≫ (みっかじょう) 

標高:455m 比高100m
築城年代:不明
築城・居住者:上杉氏、武田氏
場所:長野市豊野石字大久保
攻城日:2012年12月2日 
見どころ:郭、土塁、堀切
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:15分
注意:城域の西側の林道脇から入る道があるというが不明。尾根を直登したほうが早い。
付近の見どころ:石村城、殿屋敷
参考文献:「図解山城探訪 第十一集 水内史料編 宮坂武男著」

石村城 (31)


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Posted on 2012/12/07 Fri. 21:27 [edit]

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