らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

1223

荒神尾城② (松本市刈谷原町錦部)  

◆街道の要衝を抑えた小笠原領の最前線の要塞◆

このところ毎晩「ロード オブ ザ・リング」の三部作を観てしまい寝不足気味です・・(笑)

三時間×3本はさすがにキツイのですが、最新の「ホビット思いがけない冒険」を観る為の予習は欠かせません(汗)最後の作品「王の帰還」から既に9年が経過しているのでストーリーもすっかり忘れたし・・・・(爆)

まあ、ブログ更新の遅れの言い訳はこれぐらいにして続きを掲載するとしよう。

【A地区】

主郭を含む四つの郭で構成される主要部と、南尾根に続く搦め手の遺構は見応えがある。

荒神尾城A地区

北尾根のトラップの連続を潜り抜けて来た攻城兵は本郭を目の前にしながら、尾根を巧みに利用した「横矢掛」の罠にハマるのである。

見取図で示す2・3・4の郭から主郭へ向かう北東の尾根はまさしく北西の尾根に対して「狭間」を意識した作りであり、攻城側がクロスとなる守備側の攻撃を避ける術は無かったと思われる。

荒神尾城 (61)北西の尾根を射程範囲とした郭群。あそこから一斉射撃されたら壊滅状態になるのは必定である。

北西尾根から押し寄せる攻城軍の最後の試練が主郭手前の堀切㋘と堡塁であろうか。

荒神尾城 (60)ここを越えなければ城は落ちない。

峰の左右は深い沢で隠れる場所も無く、A地区に展開する守備側の郭群からは格好の狭間である。

力押しすれば損害は拡大する一方であったろう。

荒神尾城 (72)司令塔の郭1(17×9)。力尽きて倒れた標柱と苔むした石祠が郷愁を誘う。

荒神尾城 (79)郭1の西側は土塁が囲む。

さてはて、高白斎記の指す苅谷原城とは「鷹巣根城」「荒神尾城」のいずれを指すのであろうか??

【立地条件からの考察】

室町時代には、会田、刈谷原、塔ノ原には小県郡を本拠とする滋野系海野氏の一族が派生してが移り住み治めていたと云う。

苅谷原氏がどの時点で小笠原に滅ぼされたのか併合されたのかは定かでない。小笠原氏の家臣で苅谷原城主の太田氏が苅谷原氏にいつ取ってかわったかも分からないが、長門守として武田に認識されていた事実だけである。

刈谷原周辺古道武田軍侵略時における領土(赤線)と古道(オレンジ線)及び主要城砦の配置図。(Yahoo地図参照)

小笠原領の北端への主要道は会田領へ通じる「苅谷原峠」と、保福寺峠方面へ通じる「稲倉峠」の二つだったと思われる。(比較的標高の低い馬飼峠の利用は江戸時代後期からとも云われる)

二つの峠に侵入する敵を同時に監視して、深志方面からの味方の物資補給が容易なのは荒神尾城だという事が地図を見ても頷けると思う。

荒神尾城 (71)街道の様子が一目で分かる立地である。

でもね、立地条件だけでは断定出来ない。

武田軍相手に籠城戦に及び捕えられて切腹した太田長門守の菩提寺の洞光寺は城山(鷹巣根城)の山麓にあり、そこに墓もあるとか。まあ寺の位置は絶対条件では無いと思いますが・・・(汗)

それと、太田氏が塔ノ原氏と連携していて後詰めの約束があったとすれば鷹巣根城が有力となる。


【縄張り及び現地調査からの考察】

縄張りにおける防御構造だけ見れば、鷹巣根城はかなり大掛かりな改修の跡が見られる。
それも四本の尾根に対する堀切の厳重さに防御の重点が置かれているという印象だった。

鷹巣根城① (23)北東尾根の二重堀切(鷹巣根城)

太すぎる四本の尾根に対する防御としては当たり前なのだが、攻城側が横に展開出来る太さなので力攻めされたら不安だ。しかも籠城側の兵士の居場所が無い。

その点、荒神尾城は実にコンパクトで無駄が無い。

荒神尾城 (73)荒神尾城の郭2・3・4は駐屯地として機能していたフシが見て取れる。

主郭の広さでは双方とも似たか寄ったかなのだが、部隊の駐屯地を持つか持たないかでは雲泥の差があるような気がする。

荒神尾城 (88)郭2と主郭への切岸。ドラム缶は烽火装置である(笑)


荒神尾城 (87)郭2から郭3を見下ろす。堀切を介して方形の馬出しになってるのが分かる。

荒神尾城 (103)二番目の広さを持つ郭4から見上げた主郭方面。

北東の尾根に張り出す形で成形された四段の郭は街道からも良く見える。敵の戦意を喪失させる威容がある。

荒神尾城 (105)郭4の尾根先は岩場へ急落し深い崖となっていて敵を寄せ付けない。

荒神尾城 (98)東側が大手口だったらしい。


城正面である北側に対しては隙の無い防御だ。痩せ尾根も意図して効果的に利用している。

問題は搦め手であろうか。

荒神尾城 (111)主郭背後の南側の尾根。巾1mに満たない痩せ尾根が続く。

天文十九年(1550)七月、武田軍の攻撃により府中が陥落し林城を含めた周辺の諸城は自落。

この時に赤沢氏の伊深城も自落している。(稲倉城も同じであろう)

南側に敵を受けた状態で、太田氏は荒神尾城に籠るのであろうか?

素朴な疑問である・・・(笑)

荒神尾城 (115)搦め手最大の堀切㋜(上巾13m)

荒神尾城 (120)西側より見た堀切㋜。


さて、太田さんとは一体何者であろうか?

「信府統記」における刈谷原城主の記載を見てみよう。

当城ハ昔海野小太郎幸継ノ五男刈谷原五郎ト号シテ刈谷原反町辺ヲ領セリ、其子孫幾代ニシテ断絶スルニヤ詳ナラズ、其後太田弥助ト云者居城セリ、是ハ武州太田道灌ノ一族ナリ、当国ヘ来リ、小笠原ニ属ス。
大永三年(1523)癸未(みずのとひつじ)年ヨリ当城主トナリ、七百貫を領シ、小笠原家一ノ大身タリ、苅谷原ヨリ東ハ七嵐辺ノ村々保福寺マデ、西ハ川手ノ田沢村筋井川向フ鳥羽村迄十六ヶ村領地セリ、又此辺ノ要害ハ皆弥助持ナリ

荒神尾城 (122)南尾根最終の堀切㋝。

元々の領主であった苅谷原氏は衰退し、客将だった太田氏がこの地を小笠原氏より与えられ大永三年から治めて苅谷原城主となったようである。

「この辺の要害は全部太田弥助の持ち物」としているので、掻揚城~猿ごや~見場城~鷹巣根城~荒神尾城は山城ネットワークとして構築されたのであろう。

武田方からすれば太田長門守(資忠)の持ち城=苅谷原城であり、細かな名前なんてどうでもいいのである(笑)

ある書物によれば、「太田氏は標高が高く要害である荒神尾城を本城・詰城とした」とある。

荒神尾城 (125)南尾根の先は平坦になっているので南方面への物見か櫓門があったと思われる。


武田晴信は筑摩から川中島への攻略ルートを確保する為に、小笠原方として依然抵抗を続ける苅谷原を落とし、会田を降し筑北を制圧し村上義清を背後から追いつめる必要があった。

天文二十年には平瀬城が落城し武田の安曇攻略の拠点となっていたので、刈谷原山城ネットワークの攻略は田沢口から回り込んだ北側からも行われたと推定される。

少なくとも四つの山城を落とすのだから二日間は必要かもしれない。

荒神尾城 (130)判断の厳しい堀切㋚

まあ、色々と推定してきましたが、結論としては「苅谷原城砦群」が高白斎記の記す「苅谷原城」であり、一つの城だけを対象にはしていないって事」ですかね。(汗)

まあ、生け捕りにされたのは詰め城の「荒神尾城」で、墓が鷹巣根城にあるのは武田に遠慮してってところですか。

荒神尾城 (131)主郭背後の石積み。


「肝心の小笠原長時はすでにジプシーになってるし周辺の反武田勢力に応援頼んでも誰も来ねえし・・」

太田さん、さぞかしボヤキたかっただろうなあ。

名門太田家の血統を受け継ぐ者としては、孤軍奮闘して散るしか無かった・・・・。

荒神尾城 (133)本郭から会田方面。ここが落ちれば時間の問題で会田も落ちるはず。


さて、如何だったでしょうか?

結局そういう結論でした・・・(笑)

武田軍相手に二日間(三日間とも?)も持ちこたえた城砦群は必見の価値ありです。


≪荒神尾城≫ (こうじんおじょう 七嵐城、光神尾城) 

標高:955m 比高250m
築城年代:不明
築城・居住者:苅谷原氏、太田氏、武田氏、小笠原氏
場所:松本市錦部七嵐
攻城日:2012年12月15日 
見どころ:郭、石積み、堀切、土塁など
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:40分
注意:細尾根転落注意。上宮方面(大手口)からも登れるようです。柵は閉めてね。
付近の見どころ:鷹巣根城、掻揚城、見場城、猿ごや
参考文献:「図解山城探訪 第五集 松塩筑史料編 宮坂武男著」「信州の古城」

荒神尾城 (145)保福寺方面からの遠景。














スポンサーサイト

Posted on 2012/12/23 Sun. 09:42 [edit]

CM: 8
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top