らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0126

上尾城 (長野市信更町上尾)  

◆戦国期の山間部における集落惣構えの旧態を残す貴重な遺構◆

城下町そのものを防御構造の一環として町割りを行った縄張りは「惣構え」と呼ばれる。

戦国末期における戦国大名の拠点が置かれた平山城や平城に多く見られる構造と考えがちだが、集落全体を一つの要害と考える発想はずいぶん前からあったのでろう。

今回ご紹介する上尾城(あげおじょう)は、犀川に浸食された河岸段丘に広がる居住区を要塞化して地形を巧みに利用した中世の「惣構え」を知る事が出来る貴重な遺構である。

上尾城 (5)城域の南側からの景色。北東に突き出る段丘に城の主要部。

場所は犀川の右岸で信更町の丘陵の西北に位置している。犀川筋の見晴らしも良く篠ノ井方面に続く東側を除く三方急峻の要害の地で人を寄せ付けない場所にある。城の主要部は更府小学校の北東の山になるが、小学校周辺も「二ノ城」と呼ばれており、集落全体が城域だった名残りを偲ばせる。

上尾城 (6)番屋敷から二ノ城方面。犀川渓谷を挟み対岸の飯綱山や信州新町方面への展望が開ける。

東信濃の名族である滋野系望月氏の子孫布施氏は布施庄(現在の長野市篠ノ井布施及び山布施)の地頭職だったが、応仁年間に勢力を更科郡西山部(長野市信更町~大岡村付近一帯)まで拡大し、山平林の上尾に居住して平林姓を名乗ったという。

初代の平林左衛門尉正直(布施冠者直頼とも)は山布施に居を構えていたが、若くして隠遁生活に入り、長子の正直(父と同名か?)が成長した時に戻す約束で家督を弟の直長に譲る。

上尾城 (116)南800mの長勝寺(信更町三水)から見た上尾集落。

ところが、直長は約束を違え本家の長子である正直が成人しても家督を本家筋に譲らなかった為に騒動となる。
結局、直長は敗れて出奔し、長子の正直は上尾城、弟の正頼は有旅城(場所・詳細不明)に入り領地を治めたが、正直に嗣子が無かった為に正頼が上尾に入り本家を継ぐ。

上尾城見取図①

平林家は当初村上氏に従属していたが、三代目の正相の頃に武田氏に従い、四代目正家の時には晴信の命により牧之島城の副将(城代は馬場美濃守信房)となるが、永禄十二年(1569)出征先で北条氏との戦闘にて討死。
後を継いだ五代目正恒は上尾城に居住したが、天正三年(1575)長篠の合戦で馬場美濃守が討死し翌年にその子信春が牧之島城代となると、勝頼の命で牧之島城へ移住したという。

上尾城 (9)大門とよばれる付近に残る堀切跡。東斜面の公民館と配水池まで続いていたという。

天正十年(1582)、武田征伐で深志城を逃れた馬場信春が織田信忠軍により殺されると、牧之島城にいた平林正恒は一旦上尾城に退く。
本能寺の変で信長が横死しすると、上杉景勝の援助により牧之島城を奪還し以後上杉氏に属した。

上尾城 (14)城域西側に残る堀切㋓。

上尾城 (15)郭4の西側には薬師堂と地蔵があるが手入れもされずに朽ち果て廃墟となっている。

上尾城 (16)西側から見た堀切㋒。この時は杉林が邪魔して全体が見えなかったが、後でドギモを抜かれるハメとなる(笑)

では、平林さんが五代に渡って居城とした上尾城について現地調査からの考察をお伝えしよう。

【郭2】

大門と呼ばれる場所から北の方角に位置する郭2へ通路が入っている。
現在、軽自動車が通行できる道幅になっているが、往時はもっと狭かったであろう。道の西側の下は腰郭があり綺麗に削平されている。

上尾城 (20)大門から郭2への通路。

上尾城 (19)通路下の腰郭。

ベースボールのような五角形の郭2は35×38。北は堀切㋐を隔てて見張り郭3に接続し、南は二重堀切だったであろう堀切㋑を介して郭1の備えとなっている。
中央に社が祀られているが、後世のものであろう。

上尾城 (22)郭2。

上尾城 (34)主郭に接続する南側の防御はかなり厳しい。

上尾城 (26)丘陵の最北端に位置する郭3は見張り台であろうか。この先は急峻な崖である。

上尾城 (25)郭2と郭3の間の堀切㋐。土橋は後世の造作かもしれない。

上尾城 (39)郭2の東側に落ちる堀切㋑。


【郭1】

自分が想像していたレベルを越えると「感動」になるらしい‥‥(笑)
郭2の南にある虎口の先の世界にワクワクしている自分がいた。

そしてその先で、目の当たりにした現実は素晴らしかった。
周囲を高さ3m以上もある土塁で囲まれた郭など、そうそうお目にかかれるものでは無いのだ。

そして極めつけは背後の大堀切で圧巻の上巾19m。深さは6m以上もある優れものである。

上尾城 (49)東から見た郭1.

上尾城 (43)南側の高土塁と南虎口。

上尾城 (53)西側の土塁の欠損は善光寺平大地震で出来たという。

上尾城 (57)大堀切㋒へ繋がる虎口㋒。

上尾城 (65)上巾19mの大堀切は垂直に近い切岸でその効果を倍増するのであろう。

上尾城 (60)堀底では「溜息」の連続であった・・・(笑)


【郭4 殿屋敷・倉屋敷】

小生も写真を並べればブログが出来るものだと錯覚しているらしい・・・

二時間も掛けて記事が完成寸前だったのに、先ほど操作ミスにより消去された・・・・(怒)
やり場の無い怒りがこみ上げる。同じ記事は二度と書けない。力作だったのに・・・(ってか、本人のみぞ知る)

大堀切㋒と堀切㋓の間の郭4は、城の重要建物があった郭で、殿屋敷や倉屋敷という名前が残る。
現在は廃屋と笹藪、竹藪に覆われてしまい往時の面影すら偲ぶ事も出来ない状況である。

上尾城 (70)殿屋敷は堀切㋒側に土塁を築いている。土留めの石積みが見られる。

上尾城 (71)殿屋敷跡は「竹藪焼きたい」状態(笑)

上尾城 (72)東隣の倉屋敷も「笹藪焼きたい」状態(笑)

上尾城 (73)堀切㋓を撮影したのだが、何が何だか。

上尾城 (77)お叱り覚悟で私有地にチョッと侵入。無人でも不法侵入は止めましょう・・(汗)


【集落全て要害と為す】

上尾集落に入るには、信更町氷ノ田から現在も狭い道が二本あるだけで、往時は一本しか無かったという。
つまり東からの侵入に備えれば良かったのである。

また、上尾城は外部からの侵入者を水際で防御する縄張りばかりでなく、隠れ道という後詰め用の道を置いて防御を意識している。

上尾城 (79)氷ノ田方面への主要道路。

上尾城 (85)見取図で「物見?」と書いた場所。堀切があり、番屋が置かれた可能性がある。

上尾城 (88)城域の中枢部に位置する平林神社(上尾公民館)上尾城の南の出城という役割がありそうな場所だ。

上尾城 (92)平林神社から北方面には厳しい防御が敷かれ隠れ道なるものがある。

上尾城 (95)隠れ道は城域の北側を迂回するようなルート。

上尾城 (98)堀切㋔で遮断される。

上尾城 (103)更に東へ進むと堀切㋕で再度遮断。


【馬場跡、二ノ城跡】

今回は時間切れで退却を余儀なくされたが、主郭の下の台地は二ノ城、馬場という名称が残っている。
小学校のグランド脇には堀切跡もあるというので、また訪れてみたいと思う。

そうそう、宮坂氏曰く「城跡は一度や二度の訪問で完全を期す事は到底不可能である」と述べられている。

小生のようなひよっこであれば、100度攻めたとしても完全制覇など「夢のまた夢」であろう・・・(笑)

ってか、写真多すぎでしょう!!(爆)

上尾城 (111)馬場から見た上尾城。

≪上尾城≫ (あげおじょう) 

標高:522m 比高26m
築城年代:不明
築城・居住者:平林氏
場所:長野市信更町上尾
攻城日:2013年1月13日 
見どころ:切岸
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:5分
注意:路上駐車は場所に注意
付近の見どころ:和田城、楯の城、屏風城、和田城など
参考文献:「信濃の山城と館② 宮坂武男著」

上尾城 (114)犀川にある「信州新町道の駅」から見た上尾城。


スポンサーサイト

Posted on 2013/01/26 Sat. 00:08 [edit]

CM: 8
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top