らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0129
塩崎新城 (長野市篠ノ井塩崎越 リテイク) 
◆旧式の軍艦に最新鋭のイージス艦を合体させたらこんな感じ?◆
風邪を拗らせてしまい、三日間も寝込んでしまった・・・(汗)
「何とかは風邪ひかない」を3年間証明し続けたが、ウィルス攻撃であっけなく落城。カッコ悪ィ!(笑)
さて、この城の記事は2度目になる。実は2年前に「赤沢城」として掲載しているのだが、顔からファイヤーが出るくらい恥ずかしい記事を書いている。脇毛の左若気の至りでは許して貰えそうに無いのでリテイクする事にした・・(爆)
北東から見た塩崎新城。
お手軽に六連続の痺れる堀切を見れるのはこの城ぐらいだろうか。
麓からの比高約100m、時間にして約15分もあれば散歩気分で城跡に着く。
「苦労して登った後の達成感?」そんなの必要ありません。楽して見れるに越したことは無い(笑)

※宮坂武男氏の縄張図を参考にしています。
【城歴】
大塔合戦の二年後の応永九年(1402)、室町幕府は信濃国を料国(直轄地)と定め代官細川滋忠を下向させるが、村上満信、大井、伴野、井上、須田の諸士は滋忠の命令に背き再び戦となる。
村上満信は応永七年(1400)大塔合戦で守護の小笠原長秀の追放に成功すると、新たに築城した塩崎新城を拠点として北信濃の領有を企てたのだが、2年後の応永九年(1402)に室町幕府は信濃国を料国(直轄地)と定め代官細川滋忠を下向させる。
村上満信、大井、伴野、井上、須田の諸士は滋忠の命令に背き再び戦となり、村上満信は塩崎新城に籠るが、幕府軍の攻撃により落城している。
2年前に撮影した郭1(23×14)。今回は藪が酷くて撮影出来ず。
郭1から善光寺平の眺め。立地条件は申し分無い場所である。
その後の塩崎新城については、はっきりした事がわからない。
塩崎・四宮の領有が小笠原系の赤沢氏⇒桑原氏となり桑原氏が塩崎氏を名乗ったようで、塩崎城と共に使われたのかもしれない。
【郭1・郭2´、郭2】
宮坂武男氏も述べられている通り、郭1から北への縄張りは初期の様式であるように思われる。
郭1の南側には土塁があったようだ。
鉄塔の東側(写真右側)にも帯郭があったと思われるが改変されている。
郭2´。夏は藪が酷くて入れないだろう。
自然の岩を利用した堀切㋕。
戦国時代は使われなかったんだろうなあー、というのが感想である。
堀切にしても深さも無く短いまま。郭2に土塁があるが、堀切の深さを稼ぐ為にかさ上げした程度であろう。
郭2の土塁。
めっちゃ広い郭2。長さ50m以上はありそうだ。
古い形式の縄張りでの大手口は北の麓にあったと思われる。
北の尾根に続く腰郭と祠。
【郭3、郭4、堀切㋐~㋓】
旧態然とした城を近代武装する答えは、南尾根に主郭(郭3)及び副郭4を増設し東尾根を大手口とする新たな縄張りを行う事だったらしい。
某TV番組ではないが、まさに「匠の技」をそこに見る事が出来る(笑)
郭3と郭4。矢竹と笹藪が酷くてまともに見た記憶が無い。
郭4全景。「ええい、誰か火炎放射器を用意しろ!」
こんな状態でどこが「匠の技」かって??
郭を取り囲む見事な竪掘群。こんな低い場所でそうそうお目に掛れるものではありません。
旧主郭(郭1)を物見用の後ろ郭として、東西の斜面を刻む事で山麓からの眺めも威嚇充分だったと思われます。
この時代の城は機能も大事ですが、それよりも「見て呉れ」はもっと大事!!(笑)
南尾根の鉄塔脇の遊歩道から下りると堀切㋐。
郭3と郭4を貫通する堀切㋑。
西尾根に竪掘として落ちる堀切㋑。途中で堀切㋒、堀切㋓と合流する。
西側の斜面の処理は「凄い」の一言であろうか。
五連続の竪掘が連なる光景は山城ヲタクにとっては至福の時であろうが、守備側とすれば用心を重ねた結果でしかない。
雑な線引きだが雰囲気だけでも・・(笑)
東斜面の三連続竪掘。100m以上の長さを誇る。感動ものだ。
郭1の背後からみた郭3との接続部分。
西側の堀切㋓から見上げた郭1。
【城の正面を守る郭5・6、拡張された郭7と8】
下へのスクロールが長いので再度見取図を挿入します。最終までお付き合い頂きたい・・(笑)

戦国時代の後期に大幅な増改築を受けたであろう塩崎新城の大手は、現在の登城ルートの飯綱稲荷神社経由と思われる。
神社の社殿の脇をすり抜け尾根への遊歩道を登ると、塹壕のような道になる。これが大手道で竪掘の役割も果たしていた。通路の南には郭8、郭7が並列で造成されている。
郭8。奥が一段高く盛土されている。

西から見た郭7。
とまあ、大手口神社方面などと勝手に断定してしまったが、この東尾根の先の採石場方面だった可能性も否定出来ない。
東尾根の先端は人工的な平削の跡があり郭の可能性も?
大手口方面からの敵を挟撃出来る構造の郭5と6。
郭5には土留めの石積み。
大手方面を見下ろす位置の郭6。迎撃用郭としては絶好の位置にある。
東の緩い斜面の横への動きを制限する竪掘㋔。
例の如くツラツラと写真を並べてしまい意味不明な記事と成り果てましたが、如何でしたでしょうか?
「えっ、全然わかんない??」
そう思った方は、散歩がてら散策してみましょう。残念ながらクマはいません(笑)
新旧の築城形態が同居する山城など、そうそうお目にかかれるものでもありませんよ。
≪塩崎新城≫ (しおざきしんじょう 赤沢城)
標高:478m 比高118m
築城年代:不明
築城・居住者:村上氏、赤沢氏、塩崎氏(桑原氏)
場所:長野市篠ノ井塩崎越
攻城日:2012年12月24日
見どころ:竪掘群、郭、土塁、石積など
お勧め度:★★★★★ (お手軽に五重の連続竪掘を見れる信州の山城です)
城跡までの所要時間:15分
注意:団地付近の路上駐車は場所に注意
付近の見どころ:塩崎城、稲荷山城、小坂城など
参考文献:「信濃の山城と館② 宮坂武男著」
落書きするとこんな感じかなあー(笑)
風邪を拗らせてしまい、三日間も寝込んでしまった・・・(汗)
「何とかは風邪ひかない」を3年間証明し続けたが、ウィルス攻撃であっけなく落城。カッコ悪ィ!(笑)
さて、この城の記事は2度目になる。実は2年前に「赤沢城」として掲載しているのだが、顔からファイヤーが出るくらい恥ずかしい記事を書いている。

お手軽に六連続の痺れる堀切を見れるのはこの城ぐらいだろうか。
麓からの比高約100m、時間にして約15分もあれば散歩気分で城跡に着く。
「苦労して登った後の達成感?」そんなの必要ありません。楽して見れるに越したことは無い(笑)

※宮坂武男氏の縄張図を参考にしています。
【城歴】
大塔合戦の二年後の応永九年(1402)、室町幕府は信濃国を料国(直轄地)と定め代官細川滋忠を下向させるが、村上満信、大井、伴野、井上、須田の諸士は滋忠の命令に背き再び戦となる。
村上満信は応永七年(1400)大塔合戦で守護の小笠原長秀の追放に成功すると、新たに築城した塩崎新城を拠点として北信濃の領有を企てたのだが、2年後の応永九年(1402)に室町幕府は信濃国を料国(直轄地)と定め代官細川滋忠を下向させる。
村上満信、大井、伴野、井上、須田の諸士は滋忠の命令に背き再び戦となり、村上満信は塩崎新城に籠るが、幕府軍の攻撃により落城している。


その後の塩崎新城については、はっきりした事がわからない。
塩崎・四宮の領有が小笠原系の赤沢氏⇒桑原氏となり桑原氏が塩崎氏を名乗ったようで、塩崎城と共に使われたのかもしれない。
【郭1・郭2´、郭2】
宮坂武男氏も述べられている通り、郭1から北への縄張りは初期の様式であるように思われる。




戦国時代は使われなかったんだろうなあー、というのが感想である。
堀切にしても深さも無く短いまま。郭2に土塁があるが、堀切の深さを稼ぐ為にかさ上げした程度であろう。


古い形式の縄張りでの大手口は北の麓にあったと思われる。

【郭3、郭4、堀切㋐~㋓】
旧態然とした城を近代武装する答えは、南尾根に主郭(郭3)及び副郭4を増設し東尾根を大手口とする新たな縄張りを行う事だったらしい。
某TV番組ではないが、まさに「匠の技」をそこに見る事が出来る(笑)


こんな状態でどこが「匠の技」かって??
郭を取り囲む見事な竪掘群。こんな低い場所でそうそうお目に掛れるものではありません。
旧主郭(郭1)を物見用の後ろ郭として、東西の斜面を刻む事で山麓からの眺めも威嚇充分だったと思われます。
この時代の城は機能も大事ですが、それよりも「見て呉れ」はもっと大事!!(笑)



西側の斜面の処理は「凄い」の一言であろうか。
五連続の竪掘が連なる光景は山城ヲタクにとっては至福の時であろうが、守備側とすれば用心を重ねた結果でしかない。




【城の正面を守る郭5・6、拡張された郭7と8】
下へのスクロールが長いので再度見取図を挿入します。最終までお付き合い頂きたい・・(笑)

戦国時代の後期に大幅な増改築を受けたであろう塩崎新城の大手は、現在の登城ルートの飯綱稲荷神社経由と思われる。
神社の社殿の脇をすり抜け尾根への遊歩道を登ると、塹壕のような道になる。これが大手道で竪掘の役割も果たしていた。通路の南には郭8、郭7が並列で造成されている。



とまあ、大手口神社方面などと勝手に断定してしまったが、この東尾根の先の採石場方面だった可能性も否定出来ない。





例の如くツラツラと写真を並べてしまい意味不明な記事と成り果てましたが、如何でしたでしょうか?
「えっ、全然わかんない??」
そう思った方は、散歩がてら散策してみましょう。残念ながらクマはいません(笑)
新旧の築城形態が同居する山城など、そうそうお目にかかれるものでもありませんよ。
≪塩崎新城≫ (しおざきしんじょう 赤沢城)
標高:478m 比高118m
築城年代:不明
築城・居住者:村上氏、赤沢氏、塩崎氏(桑原氏)
場所:長野市篠ノ井塩崎越
攻城日:2012年12月24日
見どころ:竪掘群、郭、土塁、石積など
お勧め度:★★★★★ (お手軽に五重の連続竪掘を見れる信州の山城です)
城跡までの所要時間:15分
注意:団地付近の路上駐車は場所に注意
付近の見どころ:塩崎城、稲荷山城、小坂城など
参考文献:「信濃の山城と館② 宮坂武男著」

スポンサーサイト
Posted on 2013/01/29 Tue. 22:38 [edit]
« p r e v | h o m e | n e x t » |