らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0211
南信州弾丸ツアーのご報告 
◆南信州日帰り遠征で十の城を落とした同迷軍の戦果報告◆
北信濃の諸城攻略は雪に阻まれ膠着状態。
しからば気分転換に南へ遠征しようと思い「ていぴす殿」に道案内を依頼し、伊那谷街道を爆進する。
【大島城】(下伊那郡松川町)
高遠城と並び武田様式を代表する城跡の一つである。天竜川へ張り出した河岸段丘に築かれた大島城は臺城(だいじょう)とも呼ばれ、後ろ堅固と呼ばれる縄張りに丸馬出と三日月堀を組み合わせた貴重な遺構を残している。
美しい三日月堀
【原ノ城】(下伊那郡高森町)
読み方は「はらんじょう」。松岡氏の家臣龍口氏の築城とされ、松岡城の北を防衛する境目の城だったという。
道路の拡張工事に伴い一昨年まで緊急発掘がなされた。
特異な縄張りを持ち横堀を多用しているのでかなり重要視された城というのが良く分かる城である。
道路の犠牲になったが遺構は良く残っている。
【天伯の城】(下伊那郡高森町)
原ノ城の南西1kmでやはり河岸段丘の先にある。物見砦にしては立派な堀切があるので屋敷地だった可能性も否定できないようだ。
きれいに削平された尾根先の郭。
【松岡古城】(下伊那郡高森町)
松岡本城のある段丘山手側にある。平安時代の前九年の役で敗れた安倍貞任の次男仙千代がこの地に逃れ松岡氏を名乗り屋敷を建て、鎌倉末期までの300年間この地に居館を構え市田を治めたという。

【松岡本城】(下伊那郡高森町)
高森町下市田の標高560mの段丘台地の突端に築かれた6以上の郭数を持つ連梯式の巨大な城郭である。
南北朝争乱の頃に古城からこの地に拠点が移され、天正十三年(1585)に家康によって改易されるまでの200年間松岡氏の居城であった。
郭3と4の間の巨大な堀切。堀の中間に郭を設置して居住区を増設したらしい(左側の削平部分)
500年間この地を治めた名門松岡氏も時勢を見誤り家臣(座光寺氏)の密告で呆気なく滅んだ・・・。
ってか南信の城って巨大なのが多いなあ~(笑)堀の巾も凄すぎるゾ!!(汗)
【松岡南城】 (下伊那郡飯森町)
松岡本城の南側の峰に「隠居用の城」として築かれたという。
若干本城に対しては遠慮した縄張りになっているが、堀切は本城を凌いでいるように思えた。
最近きれいに整備され藪林も取り除かれたようで、ていぴす殿もびっくりしていた(笑)
とても本城に遠慮した堀切とは思えない(笑)
【大下砦】 (下伊那郡飯森町)
ここも松岡城ネットワーク(全部で17ある?)の砦だったが、南信州フルーツライン(幹線道路)の建設に伴い郭の一つと堀切が破壊されたという。別に要らないと思う駐車スペースの為に・・(怒)
唯一残った郭2。
【座光寺北城】 (飯田市座光寺)
天竜川の西側の河岸段丘上に築かれた城で居住用の北城と詰めの城の南城から構成される。
伊那谷の土豪だった座光寺氏の築城と云われる。
北城は現在小学校・保育園・お寺になり遺構の一部が残るのみである。
小学校と保育園があるので、平日の撮影は避けましょう。間違いなく通報されますよ(笑)
【座光寺南城】(飯田市座光寺)
先日、長野県の指定史跡に認定された。おめでとうございます。
どんなお城なのか楽しみに来たのですが、小生のタイプではありませんでした・・・(汗)
かなり手の込んだ縄張りでファンも多いようですが、作りが大雑把過ぎてダメです・・・(笑)
県指定史跡で綺麗に整備されたらもう一度来るかしら??
どんなに掘り切っても守りづらい城ですねえ。
【水番城】(松本市里山辺)
さて、充分堪能した南信濃を退去し松本へ戻る。
あまりアップダウンの無い城ばかりだったので、最後くらいは山城へ登りましょう(笑)
ていぴす殿に無理を言って水番城の登り口に着いたのは16:10頃かしら・・・(爆)
本郭裏側の石積み。
ヤッパね、バンバンと狭い竪掘をやたらめったら縦横無尽に(?)設置した山城最高!!(爆)
下山したら17:00過ぎてました・・・(汗)
さあ、如何でしたでしょうか、南信州遠征編。
えっ、ちゃんと掲載しないの?
まあ、そのうちボチボチと載せるかもしれませんねえ(笑)松岡城は弁当持って一日がかりでまた行きたい!
最後に、お付き合い頂きました「ていぴす殿」に感謝でございます。ありがとうございましたあー!!
最後までレポート読んでくださった皆さんにも感謝感謝でございます。
松岡城からの風景。遠くに神之峰城まで見える絶景である。
北信濃の諸城攻略は雪に阻まれ膠着状態。
しからば気分転換に南へ遠征しようと思い「ていぴす殿」に道案内を依頼し、伊那谷街道を爆進する。
【大島城】(下伊那郡松川町)
高遠城と並び武田様式を代表する城跡の一つである。天竜川へ張り出した河岸段丘に築かれた大島城は臺城(だいじょう)とも呼ばれ、後ろ堅固と呼ばれる縄張りに丸馬出と三日月堀を組み合わせた貴重な遺構を残している。

【原ノ城】(下伊那郡高森町)
読み方は「はらんじょう」。松岡氏の家臣龍口氏の築城とされ、松岡城の北を防衛する境目の城だったという。
道路の拡張工事に伴い一昨年まで緊急発掘がなされた。
特異な縄張りを持ち横堀を多用しているのでかなり重要視された城というのが良く分かる城である。

【天伯の城】(下伊那郡高森町)
原ノ城の南西1kmでやはり河岸段丘の先にある。物見砦にしては立派な堀切があるので屋敷地だった可能性も否定できないようだ。

【松岡古城】(下伊那郡高森町)
松岡本城のある段丘山手側にある。平安時代の前九年の役で敗れた安倍貞任の次男仙千代がこの地に逃れ松岡氏を名乗り屋敷を建て、鎌倉末期までの300年間この地に居館を構え市田を治めたという。

【松岡本城】(下伊那郡高森町)
高森町下市田の標高560mの段丘台地の突端に築かれた6以上の郭数を持つ連梯式の巨大な城郭である。
南北朝争乱の頃に古城からこの地に拠点が移され、天正十三年(1585)に家康によって改易されるまでの200年間松岡氏の居城であった。

500年間この地を治めた名門松岡氏も時勢を見誤り家臣(座光寺氏)の密告で呆気なく滅んだ・・・。
ってか南信の城って巨大なのが多いなあ~(笑)堀の巾も凄すぎるゾ!!(汗)
【松岡南城】 (下伊那郡飯森町)
松岡本城の南側の峰に「隠居用の城」として築かれたという。
若干本城に対しては遠慮した縄張りになっているが、堀切は本城を凌いでいるように思えた。
最近きれいに整備され藪林も取り除かれたようで、ていぴす殿もびっくりしていた(笑)

【大下砦】 (下伊那郡飯森町)
ここも松岡城ネットワーク(全部で17ある?)の砦だったが、南信州フルーツライン(幹線道路)の建設に伴い郭の一つと堀切が破壊されたという。別に要らないと思う駐車スペースの為に・・(怒)

【座光寺北城】 (飯田市座光寺)
天竜川の西側の河岸段丘上に築かれた城で居住用の北城と詰めの城の南城から構成される。
伊那谷の土豪だった座光寺氏の築城と云われる。
北城は現在小学校・保育園・お寺になり遺構の一部が残るのみである。

【座光寺南城】(飯田市座光寺)
先日、長野県の指定史跡に認定された。おめでとうございます。
どんなお城なのか楽しみに来たのですが、小生のタイプではありませんでした・・・(汗)
かなり手の込んだ縄張りでファンも多いようですが、作りが大雑把過ぎてダメです・・・(笑)
県指定史跡で綺麗に整備されたらもう一度来るかしら??

【水番城】(松本市里山辺)
さて、充分堪能した南信濃を退去し松本へ戻る。
あまりアップダウンの無い城ばかりだったので、最後くらいは山城へ登りましょう(笑)
ていぴす殿に無理を言って水番城の登り口に着いたのは16:10頃かしら・・・(爆)

ヤッパね、バンバンと狭い竪掘をやたらめったら縦横無尽に(?)設置した山城最高!!(爆)
下山したら17:00過ぎてました・・・(汗)
さあ、如何でしたでしょうか、南信州遠征編。
えっ、ちゃんと掲載しないの?
まあ、そのうちボチボチと載せるかもしれませんねえ(笑)松岡城は弁当持って一日がかりでまた行きたい!
最後に、お付き合い頂きました「ていぴす殿」に感謝でございます。ありがとうございましたあー!!
最後までレポート読んでくださった皆さんにも感謝感謝でございます。

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Posted on 2013/02/11 Mon. 12:52 [edit]
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