らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0217
高尾山城 (岡谷市川岸三沢) 
◆諏訪を一望できる絶景の烽火台跡◆
こんな日は久々に佐久地方へ攻め込むか・・・と意気揚々で進軍したが、先日降った雪が深くて一城も落とせず下見に終わり退却した(汗)
昨年からの在庫も掲載していかないと、賞味期限が切れてしまう(笑)
今回ご紹介するのは岡谷市にある「高尾山城」(たかおさんじょう)
八王子市にある高尾山(599m)と同名の山なのだがイマイチ知名度は低いようだ・・・・(汗)

登山口。岡谷市民のお手軽なトレッキングコースらしいが、城跡という認識は無いらしい。
場所は天竜川の右岸で塩嶺山地から派生した独立峰の高尾山(1,016m)の山頂にある。
登山道は整備されているが結構な急坂で、一合目から順番に標柱が途中に設置され十合目の頂上まで続く。
普段テキトーに直登している小生には邪魔な表示で、「まだ五合目かよ!(怒)」という有り様だった・・(笑)

広畑遺跡の先にある大鳥居からが登山道。かつての大手道だという。
黙々と20分ひたすら登る。
独立峰の城跡なら道筋に堀切などの遺構があるのだが、ここには何も無く頂上の郭へ一本道が続くのみである。

疲れが吹き飛ぶ諏訪湖方面の遠景。
頂上に立てば、ここが見張り台や烽火台としては文句の無い場所であることが充分理解出来る立地である。
築城年代や城主はハッキリしないが、下社大祝金刺氏の分流でこの地の地頭だった三沢氏の要害だったと考えられている。
三沢氏は武田軍の諏訪侵攻の際に武田氏に属したとされ、山麓の大島地籍に居館を構え、現在の川岸小学校の西当りに根小屋があったとされている。

縄張りは主郭と背後の副郭から構成される古い形式であり、戦闘用に改修された跡も無く烽火台としてはこの程度で充分だったと思われる。
削平された西隅には頂上の標柱がある。
主郭の東は段差のある傾斜地で、東屋付近で烽火を上げたと思われる。

現在石祠のある主郭北側は土塁で盛られ、背後はL字の堀切になっている。
城域の西側は岩場を伴う急な崖であり、大手を含めた残り三方も傾斜がキツく攻めるには困難な場所である。

主郭と副郭の間の堀切。

入角(いりすみ)と云われ北東が鬼門のために取り除かれた土塁。
ここ数年訪れる人も少なくなったせいか、主郭ですら藪がひどく荒れ果てた印象を受けた。
背後の郭2は雑木林と雑草で全体像すら掴めず、写真を撮っても何が何だかの有り様だった・・(汗)

郭2。

郭2の北側にある防御構造。

主郭手前には犬走りのような腰郭が設置されている。
上原城から、高嶋古城、諏訪下社秋宮、桜城、花岡城を経由し辰野・伊那谷方面に繋ぐ「信玄の烽火かがり」とすれば、これほど地形的に充足した場所は他に見当たらない。

天文十三年(1544)の龍ヶ崎城攻めにも高尾山城は機能したのだろうか?
下山してから気がついたのだが、この場所の山麓は「広畑遺跡」と呼ばれ縄文時代の集落の住居跡や土偶が発掘された有名な場所なのだという。

そういえば、日頃からご指導頂いている「あおれんじゃあ」さんも縄文時代に詳しいらしい。
お産の形をした土偶は珍しいらしいので、そのうち聞いてみたいと思います(笑)

伊那谷へ続く川岸方面。太古の昔から天竜川の恩恵はあったんでしょうね。
≪高尾山城≫ (たかおさんじょう)
標高:1016m 比高140m
築城年代:不明
築城・居住者:三沢氏
場所:岡谷市川岸三沢
攻城日:2012年10月13日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間20分
見どころ:堀切、土塁、郭
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」

こんな日は久々に佐久地方へ攻め込むか・・・と意気揚々で進軍したが、先日降った雪が深くて一城も落とせず下見に終わり退却した(汗)
昨年からの在庫も掲載していかないと、賞味期限が切れてしまう(笑)
今回ご紹介するのは岡谷市にある「高尾山城」(たかおさんじょう)
八王子市にある高尾山(599m)と同名の山なのだがイマイチ知名度は低いようだ・・・・(汗)

登山口。岡谷市民のお手軽なトレッキングコースらしいが、城跡という認識は無いらしい。
場所は天竜川の右岸で塩嶺山地から派生した独立峰の高尾山(1,016m)の山頂にある。
登山道は整備されているが結構な急坂で、一合目から順番に標柱が途中に設置され十合目の頂上まで続く。
普段テキトーに直登している小生には邪魔な表示で、「まだ五合目かよ!(怒)」という有り様だった・・(笑)

広畑遺跡の先にある大鳥居からが登山道。かつての大手道だという。
黙々と20分ひたすら登る。
独立峰の城跡なら道筋に堀切などの遺構があるのだが、ここには何も無く頂上の郭へ一本道が続くのみである。

疲れが吹き飛ぶ諏訪湖方面の遠景。
頂上に立てば、ここが見張り台や烽火台としては文句の無い場所であることが充分理解出来る立地である。
築城年代や城主はハッキリしないが、下社大祝金刺氏の分流でこの地の地頭だった三沢氏の要害だったと考えられている。
三沢氏は武田軍の諏訪侵攻の際に武田氏に属したとされ、山麓の大島地籍に居館を構え、現在の川岸小学校の西当りに根小屋があったとされている。

縄張りは主郭と背後の副郭から構成される古い形式であり、戦闘用に改修された跡も無く烽火台としてはこの程度で充分だったと思われる。



現在石祠のある主郭北側は土塁で盛られ、背後はL字の堀切になっている。
城域の西側は岩場を伴う急な崖であり、大手を含めた残り三方も傾斜がキツく攻めるには困難な場所である。

主郭と副郭の間の堀切。

入角(いりすみ)と云われ北東が鬼門のために取り除かれた土塁。
ここ数年訪れる人も少なくなったせいか、主郭ですら藪がひどく荒れ果てた印象を受けた。
背後の郭2は雑木林と雑草で全体像すら掴めず、写真を撮っても何が何だかの有り様だった・・(汗)

郭2。

郭2の北側にある防御構造。

主郭手前には犬走りのような腰郭が設置されている。
上原城から、高嶋古城、諏訪下社秋宮、桜城、花岡城を経由し辰野・伊那谷方面に繋ぐ「信玄の烽火かがり」とすれば、これほど地形的に充足した場所は他に見当たらない。

天文十三年(1544)の龍ヶ崎城攻めにも高尾山城は機能したのだろうか?
下山してから気がついたのだが、この場所の山麓は「広畑遺跡」と呼ばれ縄文時代の集落の住居跡や土偶が発掘された有名な場所なのだという。

そういえば、日頃からご指導頂いている「あおれんじゃあ」さんも縄文時代に詳しいらしい。
お産の形をした土偶は珍しいらしいので、そのうち聞いてみたいと思います(笑)

伊那谷へ続く川岸方面。太古の昔から天竜川の恩恵はあったんでしょうね。
≪高尾山城≫ (たかおさんじょう)
標高:1016m 比高140m
築城年代:不明
築城・居住者:三沢氏
場所:岡谷市川岸三沢
攻城日:2012年10月13日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間20分
見どころ:堀切、土塁、郭
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」

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Posted on 2013/02/17 Sun. 21:31 [edit]
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