らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0331
蟻ヶ城 (長野市大岡中牧) 
◆謎に包まれた境目の城◆
実はこの城、行きたくて見たくて一年越し。
昨日ていぴす様との共同戦線でようやく攻め落とす事が出来た(笑)
南尾根の登り口にある四阿山(あずまやさん)社。薄ら雪が積もっていた(汗)
大岡の城砦群といえば、砦山城(大岡城)、小松尾城、笹久砦だけと思っていたが、中牧地区の芦沼池の南側の円錐形の山に蟻ヶ城なる砦があるのだという。
長野縣町村誌によれば、蟻ヶ城として「村ノ東南ノ方ニアリ四阿山ノ嶺上、一平地ヲナシ、東西十間、南北八間、今芝地トナル。四方険峻北ノ方二重ニ堀切アリ、某ノ物見跡ナリシヤ不詳。」の記載だけで、城主や城歴については全く不明である。
どこまでが参道なのか竪掘なのか不明。
傾斜角45度はさすがに登るのはキツイ。山頂の城跡には奥社が置かれているので、もともと堀だったものを後から参道にしたとみるのが正解のようである。
主郭手前に置かれた四阿山社の奥社。
氷点下の気温で時折粉雪が舞う参道を息を切らして黙々と15分弱も登れば奥社が見える。そこから城域である。
(信濃の山城と城館2 宮坂武男氏の縄張図を参照して作成)
あまり期待はしていなかったのだが、予想に反してビシッとした城跡だったので驚いた・・(汗)
独立峰の山城なので、上杉流と思われる防御構造がテンコ盛りである。
まるで「毘沙門天祭り」のようだ・・・・(笑)
郭1(主郭)。周囲に土塁の跡は無い。(背後の堀切手前をかさ上げしているが)
主郭からみた郭3(南方面)
図面を見てもわかるが、南側からの攻撃を想定した縄張りと防御システムである。
南2kmには砦山城、その先に笹久砦、麻績と大岡の境には高城と続く。
在地土豪としてこの辺りには中牧氏がいたようだが、これだけ高度で大掛かりな築城は無理。
大勢力が関わっていたはずだろう。
堀切㋐(上巾7m)
堀切㋐は東南の沢に長大な竪掘として落ちている。
郭2。
城跡をくまなく徘徊して思ったのだが、もともとあった在位土豪の砦を改修したものでなく、全く新たに普請した城のように思える。
堀切㋑(上から撮影)
堀切㋒(堀底から撮影)北尾根はセオリー通り段差を付けた二重堀切で処理している。
全く根拠が無いので想像の域を出ないが、仮に上杉さんちの新築だとしたらタイミングは二つ可能性があり、下記に示すいずれか、という事になる。
その1:【第二次甲越合戦講和条件が破談となった弘治三年?】
旭山城を巡る200日の講和条件は、武田方の旭山城の破却と川中島四郡の旧領主への所領返還だった。
弘治三年(1557)2月、不意打ちで晴信は上杉方の葛山城を急襲し落城させる。
怒った長尾景虎(謙信)は4月に善光寺へ出陣し旭山城を再興し武田軍を川中島より駆逐する。
晴信は前線を埴科郡まで引き下げ、筑摩郡方面も大岡城(砦山城)まで引かざるを得ない状況に陥った。
このタイミングか?
堀切は石積みだったようだ。土留め用だろうか。
東尾根の堀切㋓
その2:【天正壬午の乱における対小笠原貞慶への前衛基地か?】
上杉VS小笠原の麻績城・青柳城を巡る争奪戦は天正11年~12年にかけて熾烈を極めた。
生坂村の日岐城が落ちると大岡方面は貞慶の掌握するところとなり、砦山城が上杉との境目の城として重要な役割を持った。
景勝にしてみれば、牧野島城へ匕首を突きつけられるのを避けるためには、砦山城と対峙する拠点が必要だったと思われる。このタイミングだろうか?
段郭を連ねた東尾根の処理。

堀切に段郭、二重堀切の組合せであれば、武田系でも村上系でも無数に存在する。
この城には周囲の砦と違い、畝掘が多用されている。
小笠原さんも畝堀が特徴の山城を作っているが、筑摩方面に対する防御構造なので上杉さん系とみるのが自然か?
堀切㋐から南尾根の竪掘の間には複数本の畝傍堀が確認出来る。(かなり浅くなっているので注意)
南尾根の参道(竪掘)の西側にも2本の畝堀を見る事が出来る。
ここに横堀を穿ち放射状の畝堀群にすれば貞慶さん系なんでしょうが、上杉さんちは正攻法なんでしょうね(笑)
西の尾根も真面目に加工しています。ここにも畝堀を四連で入れているのが確認出来て、堀切で落としています。
補助線を入れないと何が何だか(汗)
ほほう、石礫(いしつぶて)なんて久々に見ましたよ。確か諏訪の干沢城にもありましたね。
這い上がってくる攻城兵には石を落としたり投げたりするのが効果的。コスト的にも安上がりです・・(爆)
クーさんとの遠距離戦に有効と思われます。
堀切㋕
西尾根先端の平場から見上げた主郭方面。
イカン、またツラツラと写真を並べている・・・・・・・・・・・(冷汗)
蟻ヶ城は籠城戦など全く想定していない迎撃用の城であり、後詰めが無ければ二日も持たないと思われる。
謙信公の指示で築城されたとすれば、後詰めはどこか?という事になり、景勝さん時代なら芋川親正が城将を勤めた牧野島城だったはず。
芦沼池は目と鼻の先にある。
北信濃の城攻めに際しては甲越戦争とその時代背景の理解が必要になり、その後に勃発した天正壬午の乱の知識もある程度知っていないと面白みが半減するだろう。
でもね、そんな事は後からだっていくらでも学習出来るんです。
今大切な事は「その場所を訪れて、実際に城跡に立って見る事 そして感じる事」だと思うんです。
個人的には幻の「大野田城」ってここだったのかなあーと思ってます。そういう浪漫もアリですよネ。
裏付けの資料が見つかると嬉しいのですが・・・(笑)
急斜面は帰り道も怖いのだ。
≪蟻ヶ城≫ (ありがじょう)
標高:1028m 比高170m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市大岡中牧
攻城日:2013年3月30日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要:四阿山社脇の車道から15分 駐車場:道路脇に駐車
見どころ:土塁、堀切、畝堀、石礫
付近の城跡:砦山城、笹久砦、小松尾城など
注意事項:夏は藪に覆われる恐れあり。
参考文献:「信州の山城と館②「更埴・長野編 宮坂武男著」
芦沼池方面から見た蟻ヶ城全景。
実はこの城、行きたくて見たくて一年越し。
昨日ていぴす様との共同戦線でようやく攻め落とす事が出来た(笑)

大岡の城砦群といえば、砦山城(大岡城)、小松尾城、笹久砦だけと思っていたが、中牧地区の芦沼池の南側の円錐形の山に蟻ヶ城なる砦があるのだという。
長野縣町村誌によれば、蟻ヶ城として「村ノ東南ノ方ニアリ四阿山ノ嶺上、一平地ヲナシ、東西十間、南北八間、今芝地トナル。四方険峻北ノ方二重ニ堀切アリ、某ノ物見跡ナリシヤ不詳。」の記載だけで、城主や城歴については全く不明である。

傾斜角45度はさすがに登るのはキツイ。山頂の城跡には奥社が置かれているので、もともと堀だったものを後から参道にしたとみるのが正解のようである。

氷点下の気温で時折粉雪が舞う参道を息を切らして黙々と15分弱も登れば奥社が見える。そこから城域である。

あまり期待はしていなかったのだが、予想に反してビシッとした城跡だったので驚いた・・(汗)
独立峰の山城なので、上杉流と思われる防御構造がテンコ盛りである。
まるで「毘沙門天祭り」のようだ・・・・(笑)


図面を見てもわかるが、南側からの攻撃を想定した縄張りと防御システムである。
南2kmには砦山城、その先に笹久砦、麻績と大岡の境には高城と続く。
在地土豪としてこの辺りには中牧氏がいたようだが、これだけ高度で大掛かりな築城は無理。
大勢力が関わっていたはずだろう。



城跡をくまなく徘徊して思ったのだが、もともとあった在位土豪の砦を改修したものでなく、全く新たに普請した城のように思える。


全く根拠が無いので想像の域を出ないが、仮に上杉さんちの新築だとしたらタイミングは二つ可能性があり、下記に示すいずれか、という事になる。
その1:【第二次甲越合戦講和条件が破談となった弘治三年?】
旭山城を巡る200日の講和条件は、武田方の旭山城の破却と川中島四郡の旧領主への所領返還だった。
弘治三年(1557)2月、不意打ちで晴信は上杉方の葛山城を急襲し落城させる。
怒った長尾景虎(謙信)は4月に善光寺へ出陣し旭山城を再興し武田軍を川中島より駆逐する。
晴信は前線を埴科郡まで引き下げ、筑摩郡方面も大岡城(砦山城)まで引かざるを得ない状況に陥った。
このタイミングか?


その2:【天正壬午の乱における対小笠原貞慶への前衛基地か?】
上杉VS小笠原の麻績城・青柳城を巡る争奪戦は天正11年~12年にかけて熾烈を極めた。
生坂村の日岐城が落ちると大岡方面は貞慶の掌握するところとなり、砦山城が上杉との境目の城として重要な役割を持った。
景勝にしてみれば、牧野島城へ匕首を突きつけられるのを避けるためには、砦山城と対峙する拠点が必要だったと思われる。このタイミングだろうか?


堀切に段郭、二重堀切の組合せであれば、武田系でも村上系でも無数に存在する。
この城には周囲の砦と違い、畝掘が多用されている。
小笠原さんも畝堀が特徴の山城を作っているが、筑摩方面に対する防御構造なので上杉さん系とみるのが自然か?


ここに横堀を穿ち放射状の畝堀群にすれば貞慶さん系なんでしょうが、上杉さんちは正攻法なんでしょうね(笑)
西の尾根も真面目に加工しています。ここにも畝堀を四連で入れているのが確認出来て、堀切で落としています。

ほほう、石礫(いしつぶて)なんて久々に見ましたよ。確か諏訪の干沢城にもありましたね。
這い上がってくる攻城兵には石を落としたり投げたりするのが効果的。コスト的にも安上がりです・・(爆)



イカン、またツラツラと写真を並べている・・・・・・・・・・・(冷汗)
蟻ヶ城は籠城戦など全く想定していない迎撃用の城であり、後詰めが無ければ二日も持たないと思われる。
謙信公の指示で築城されたとすれば、後詰めはどこか?という事になり、景勝さん時代なら芋川親正が城将を勤めた牧野島城だったはず。

北信濃の城攻めに際しては甲越戦争とその時代背景の理解が必要になり、その後に勃発した天正壬午の乱の知識もある程度知っていないと面白みが半減するだろう。
でもね、そんな事は後からだっていくらでも学習出来るんです。
今大切な事は「その場所を訪れて、実際に城跡に立って見る事 そして感じる事」だと思うんです。
個人的には幻の「大野田城」ってここだったのかなあーと思ってます。そういう浪漫もアリですよネ。
裏付けの資料が見つかると嬉しいのですが・・・(笑)

≪蟻ヶ城≫ (ありがじょう)
標高:1028m 比高170m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市大岡中牧
攻城日:2013年3月30日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要:四阿山社脇の車道から15分 駐車場:道路脇に駐車
見どころ:土塁、堀切、畝堀、石礫
付近の城跡:砦山城、笹久砦、小松尾城など
注意事項:夏は藪に覆われる恐れあり。
参考文献:「信州の山城と館②「更埴・長野編 宮坂武男著」

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Posted on 2013/03/31 Sun. 21:08 [edit]
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