らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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村上国清の墓所  

◆同族屋代氏の裏切りで人生設計が狂ってしまった村上義清の嫡男の末期とは◆

残念ながら、武田晴信(のちの信玄)を二度も破った村上義清の評価は低いと言わざるを得ない。

ましてや、その嫡男である「村上国清」(山浦景国)の上杉時代の功績などほとんど知られる事も無いだろう。

DSCF4249.jpg葛尾城搦め手の最終にある「石塁」と呼ばれる防御施設。

父ちゃんの義清は、不本意な事であるが、木曾義仲同様に「猪武者」とか「田舎武者」のレッテルを貼られてしまい、挙句の果てに故郷を捨てて長尾景虎(上杉謙信)を頼った「腰ぬけサムライ」という有り難くないイメージで現在に語り継がれている。

個人的には好きなのだが、声を大にして言うと変人扱いされるし・・・(笑)

DSCF4224.jpg葛尾城の巨大な堀切。中央下にていぴす様が写っているのでその大きさはお分かりいただけるでしょう。

村上義清は第一次川中島合戦に上杉方として参戦したのを最後に文献から消えた。

通説では永禄八年(1565)に越後の根知城で亡くなったとされるが、水戸村上家の資料では元亀四年(1573)に越後山浦で亡くなったとあり定かではない。(墓所は六ヶ所ある)

neti 1糸魚川市に残る根知城跡。

嫡男である清国の生年は不明だが、オヤジの亡くなった年に謙信に従い上野国に出陣し、その後越中を拠点として永禄十二年(1569)義清が拝領していた山浦領を受け継ぐと共に名跡である山浦姓を名乗ったという。

謙信公に外交官としての手腕を見出され、織田信長、徳川家康、一向一揆との交渉を行い天正三年には、上杉一門では景勝に次ぐ重臣だった。

DSCF4280.jpg姫城も久々に行きましたがキチンと整備されていましたよ。

七尾城が謙信により陥落すると国清は末森城に入り、手取川の合戦では織田勢と対峙していたようだ。

金沢旅行記 131七尾城跡。

天正六年(1578)謙信公が亡くなり「御館の乱」が勃発すると、国清は景勝側として勝利に貢献し、景勝より恩賞として一字を賜り「山浦景国」と改名する。

DSCF4296.jpg坂城神社の北500m先の道路脇にある墓所への標柱。

本能寺で織田信長が斃れ、天正壬午の乱が勃発すると上杉景勝は川中島四郡を手中に収め、海津城代として景国を任命し、かつての同族で配下であった屋代秀正を副将として派遣。

父の義清が叶える事の出来なかった領国帰還の夢を果たした景国は、村上姓を名乗り領国統治を進める。

天正十二年四月、小笠原貞慶との領土争い抗争が激化し同じく徳川方となった真田氏とも緊張が続く中で、海津城副将の屋代秀正が室賀氏と共に出奔し、徳川方として荒砥城へ立て籠もるという非常事態が発生してしまう。

IMGP0415.jpg荒砥城に残る古い石積み跡。

村上氏の被官だった屋代氏は、武田軍の信濃侵攻においていち早く村上を見限って武田に降った。

そんな過去の因縁を持つ両家が海津城で顔を合わせてもうまくいくはずがなかったと思われる。

屋代氏の持ち城の荒砥城を輪番制にされた事も寝返りの原因の一つとされる。

DSCF4299.jpg国清の墓所はかなり山の中にある。城跡探しに近いものがあった(汗)

屋代秀正の出奔は上杉方にかなり深刻な動揺をもたらした。場合によっては上杉方となっている北信濃の諸将のほとんどが裏切り海津城が奪取される可能性すら持っていたのだ。

飯山城から軍を海津城へ急いで派兵し、越後からは援軍を派遣し信濃の諸将には安堵状を発給し慰撫に努め、景勝自ら海津城に入り体制の再構築を行ったという。

村上国清は屋代秀正叛逆の失態と責任を問われ城代を解任され、越後山浦領へ帰還。山浦氏の名跡と所領は辛うじて安堵されたが、再び信濃へ戻る事はなかった。二度目の没落となってしまった。

DSCF4302.jpg墓所は宝暦三年(1744)の建立とある。

その後の村上国清であるが、「文禄三年定納員数目録」によれば山浦源吾(国清)は家臣団の筆頭として2,277石と記載がある。

また、会津への転封時には陸奥国塩松城の城主として6,500石だったという。本人はどう思っていたかは不明だが、失脚したとはいえ上杉家では破格の扱いだったらしい。

「上杉将士書上」によれば、関ヶ原の戦いの後は米沢に減封となった上杉家を離れ浪人になったという。

一説によれば故郷信濃の坂木の地で村上家の再興を画策するが、願い叶わず行方知れずになったとも云われる。

DSCF4259.jpg葛尾城から見た虚空蔵山城方面。

江戸時代に村上家の子孫として存続したのは二家あり、徳川御三家の水戸家に仕えた「水戸村上家」と信濃で浪人として過ごした「義豊系村上家」だという。


【水戸村上家】

村上義清の三女が嫁いだ会田筑前守の子で、景国の養子となり高国を名乗り上杉に仕えた。浪人後、娘が水戸の徳川家に仕えた関係で徳川家に召抱えられ幕末まで家名を存続したという。


【義豊系村上氏】

義清の曾孫で国清の子の景国の子と伝わるが確証がなく、怪しい家系図を売り歩き、村上家の再興を幕府に願い続けたという。子孫は最終的には幕末の水戸藩の徳川斉昭に15石(?)で出仕した。


そういえばヤブレンジャーの「あおれんじゃあ」さんも信濃出身で現在は常陸の国に在住だという。
村上家とは関係無いかもしれないが、信濃と常陸は意外と近いのかもしれない・・・(笑)

DSCF4300.jpg

それにしても、わざわざこんな山奥に墓を建てるとは、どなたかに遠慮していたのであろうか?

墓所は村上家再興運動を展開していた時期の建立なので、みすぼらしい山奥に移されたのかもしれない。

北信濃に覇を唱えた村上義清の嫡男国清もまた、戦国時代に翻弄され数奇な人生を辿った悲劇の武人だったのかもしれない。

≪村上国清の墓所≫ 

標高:490m 比高100m
築城年代:不明
築城・居住者:
場所:埴科郡坂城町日名沢
攻城日:2013年3月10日 
見どころ:お墓
お勧め度:★☆☆☆☆
史跡までの所☆時間:10分
注意:特に無し
付近の見どころ:
参考文献:「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(平山優 著)
「坂木宿ふるさと歴史館 展示資料」


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Posted on 2013/03/06 Wed. 22:06 [edit]

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