らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0426
塩田城その2 (上田市前山) 
◆再発見、塩田城の魅力とは◆
と書いたものの、信州の鎌倉と呼ばれる塩田平を訪れた観光客は隣の前山寺三重塔と信濃デッサン館(無言館)を見て、塩田城は素通りか良くても入り口だけ見て隣の「塩田の館」で皿そばを食べて次の中禅寺へ向かうらしい。
至極残念な事である。
発掘調査ではW型の堀底だったという内堀。現在は前山寺への遊歩道になっている。
入り口に宮坂武男氏の塩田城復元予想図の看板でもあれば、想像を掻き立てられそうなものだが、鬱蒼とした杉林の大手道では気が引けるのも当然であろう。
何の看板も無い大手道。上田市教育委員会のやる気の無さを感じる。
著名な山城跡では縄張図の立て看板を時々見受ける。
無いよりはマシだが、見慣れない人には酷く不親切だと思う。
そう、「昔はこんな感じでデカイ城がありましたあー」ってのがいい(笑)
「図解山城探訪第三集 上田小県資料編 塩田城復元図 宮坂武男著 (平成16年)」より転載。
こんな復元図見たら、妄想はピークになること間違いない。
もしこの鳥瞰図に小学校時代に出逢っていたらと思うと、その後の人生は違っただろうとゾッとするが・・(爆)
今回もこのヘタクソな概略図にお付き合いいただこう。
【内堀と西斜面の竪掘・東側の沢】
西側の竪掘は何をどうしたいのかイマイチ良く分からない位置にあるのですが、内堀と連結して土塁まで迫り上げているので、西砦下の防御ラインを形成していたのでしょう。
竪掘を上の斜面より見下ろすとこんな感じ。
内堀との合流はこんな感じ。
龍光院方面へ続く遊歩道が往時の内堀跡。
東袖を守る形で鎮座している前山寺との間は天然の渓谷で神戸川が流れている。
内堀は神戸川の沢へ落ちる形で終わる。
この堀群の処理は「城正面」という縄張であり武田統治時代の改修のような気がする。
通常は河岸段丘や崖淵・田切地形に多くみられるのだが、三方を険しい嶺に囲まれまれたこの地形を巧く利用している。搦め手を弘法山としている点も面白い。
【三島社周辺】
お城マニアの皆さんは三島社と虎の口まで行かれた方が多いのであろうか。更に探究心の強い方は国時の墓所のある郭まで登るらしい。
御前と呼ばれる広大な屋敷跡地を進むと分岐点に標柱があり、そのまま進めば三島社、右へ折れれば虎の口経由で国時墓所方面。
レトロな標柱。
東の砦のある峰のどん詰まりが三島社のある郭で、ここから「虎の口」と呼ばれた郭までがこの城の中枢部であり最終の防御ラインだったと思われる。
三島社のある郭と背後の一番大きな竪掘。
三島社の背後の斜面にはメインの竪掘の他に五本の畝状竪掘が走っているらしい。
畝堀は村上さんちには無い築城技術なので、武田さんが後から付け足したと見るべきか?
この写真に五本あるうちの四本の竪掘りを発見出来たら、立派な宮坂教の信者である(笑)
斜面を這う上巾10mの竪掘り。
虎の口方面へ向けては竪堀が横堀になるのだが、大手側からの通路と合流し不規則な造りでもある。
【枡形付近と堅固な石塁】
村上氏の被官である福沢氏の統治時代は、この竪掘りが「主郭手前の大堀切」であった可能性が高い。
土塁の上に柵を巡らせ、枡形の場所に門扉を置けばかなり堅固な防御であったと思われる。
枡形と左右の石積み土塁。
枡形の隣にある中枢部最大の郭。村上時代の重要な建物ああったのだろうか。
何段かの郭が続く。
【虎の口】
ちなみにタイガーマスクは虎の穴の出身であったとか・・(笑)
予め断っておくが、この場所は虎口(こぐち)ではない。
その語源は、決して突破することの出来ない事を意味する「虎の口」からきているのであろうか(って同じじゃん)
北側は二段の石垣。
L字で強制的に迂回を強いる西側の石垣。
郭の中央を遮断する石塁。諏訪原城でも見た遺構がここにあるとは。
鉄壁の防御を敷く。
ここには井戸もあることから、籠城戦に及んだ場合の最終の詰所として頑丈に作られた事は容易に想像が出来る。
この技術が武田時代なのか、上田城築城以前の真田氏による改修なのかハッキリしない。
福沢時代にある程度あったものを武田が新たに普請した際に追加したのかも分からない。
北に向けて一か所だけ開いている。
巨大な郭の中央の石塁土塁。
昭和45年の発掘調査時に発見された井戸跡。
東の峰の先端に竪掘りを構築し、西の峰の砦まで石塁を繋ぐことで一筆書きの堅固さを完成させている。
この辺りは村上時代に原形があり、北側の内堀まで含めた「後ろ堅固」は武田時代の拡張工事と見たいが、如何であろうか?
≪塩田城 中枢部≫
標高:650m 比高100m(内堀より)
場所:塩田城の中央部
攻城日:2013年4月13日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの経路:入り口からひたすら歩いて登るだけである。虎の口まではゆっくり10分もあれば着く。
見どころ:石塁、堀切、井戸跡、切岸、畝堀群など
参考文献:「図解山城探訪 上田小県資料編 宮坂武男著」
内堀と竪掘りの交差する南側の郭には不思議な石仏と石垣が残る
次回は北条国時の墓所と中塁群、東塁をご紹介します。
と書いたものの、信州の鎌倉と呼ばれる塩田平を訪れた観光客は隣の前山寺三重塔と信濃デッサン館(無言館)を見て、塩田城は素通りか良くても入り口だけ見て隣の「塩田の館」で皿そばを食べて次の中禅寺へ向かうらしい。
至極残念な事である。

入り口に宮坂武男氏の塩田城復元予想図の看板でもあれば、想像を掻き立てられそうなものだが、鬱蒼とした杉林の大手道では気が引けるのも当然であろう。

著名な山城跡では縄張図の立て看板を時々見受ける。
無いよりはマシだが、見慣れない人には酷く不親切だと思う。
そう、「昔はこんな感じでデカイ城がありましたあー」ってのがいい(笑)

こんな復元図見たら、妄想はピークになること間違いない。
もしこの鳥瞰図に小学校時代に出逢っていたらと思うと、その後の人生は違っただろうとゾッとするが・・(爆)

【内堀と西斜面の竪掘・東側の沢】
西側の竪掘は何をどうしたいのかイマイチ良く分からない位置にあるのですが、内堀と連結して土塁まで迫り上げているので、西砦下の防御ラインを形成していたのでしょう。



東袖を守る形で鎮座している前山寺との間は天然の渓谷で神戸川が流れている。

この堀群の処理は「城正面」という縄張であり武田統治時代の改修のような気がする。
通常は河岸段丘や崖淵・田切地形に多くみられるのだが、三方を険しい嶺に囲まれまれたこの地形を巧く利用している。搦め手を弘法山としている点も面白い。
【三島社周辺】
お城マニアの皆さんは三島社と虎の口まで行かれた方が多いのであろうか。更に探究心の強い方は国時の墓所のある郭まで登るらしい。


東の砦のある峰のどん詰まりが三島社のある郭で、ここから「虎の口」と呼ばれた郭までがこの城の中枢部であり最終の防御ラインだったと思われる。

三島社の背後の斜面にはメインの竪掘の他に五本の畝状竪掘が走っているらしい。
畝堀は村上さんちには無い築城技術なので、武田さんが後から付け足したと見るべきか?



【枡形付近と堅固な石塁】
村上氏の被官である福沢氏の統治時代は、この竪掘りが「主郭手前の大堀切」であった可能性が高い。
土塁の上に柵を巡らせ、枡形の場所に門扉を置けばかなり堅固な防御であったと思われる。



【虎の口】
ちなみにタイガーマスクは虎の穴の出身であったとか・・(笑)
予め断っておくが、この場所は虎口(こぐち)ではない。
その語源は、決して突破することの出来ない事を意味する「虎の口」からきているのであろうか(って同じじゃん)




ここには井戸もあることから、籠城戦に及んだ場合の最終の詰所として頑丈に作られた事は容易に想像が出来る。
この技術が武田時代なのか、上田城築城以前の真田氏による改修なのかハッキリしない。
福沢時代にある程度あったものを武田が新たに普請した際に追加したのかも分からない。



東の峰の先端に竪掘りを構築し、西の峰の砦まで石塁を繋ぐことで一筆書きの堅固さを完成させている。
この辺りは村上時代に原形があり、北側の内堀まで含めた「後ろ堅固」は武田時代の拡張工事と見たいが、如何であろうか?
≪塩田城 中枢部≫
標高:650m 比高100m(内堀より)
場所:塩田城の中央部
攻城日:2013年4月13日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの経路:入り口からひたすら歩いて登るだけである。虎の口まではゆっくり10分もあれば着く。
見どころ:石塁、堀切、井戸跡、切岸、畝堀群など
参考文献:「図解山城探訪 上田小県資料編 宮坂武男著」

次回は北条国時の墓所と中塁群、東塁をご紹介します。
Posted on 2013/04/26 Fri. 22:34 [edit]
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