らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0524

北条城② (松本市梓川南北条 リテイク)  

◆牧場経営のプロ滋野系海野一族西牧氏の本城◆

「えーっ、北条城の①って何処でいつ書いているの??」とお怒りの皆さま、北条城①は昨年9月29日の記事をご参照願いたい。

前回の調査記録はあまりにも酷いので、今年の3月に深志方面にお住まいで信濃先方衆の「ていぴす」殿に援軍を依頼し全容を再度調査してきました・・(汗)

北條城2 (11)北条城の大手を抑えた亀山城背後の見事な堀切。正面の登城口はこの堀切を越えた急坂をヒタスラ登るのである。

【西牧氏の出自】

西牧氏は東信濃の小県郡(ちいさがたぐん)を拠点とした牧場経営を行う豪族滋野系海野氏の分流で、会田地方へ進出した会田岩下氏、塔ノ原氏、光氏と同族。梓川一帯に進出した海野氏は土着して西牧氏を名乗ったという。

南北朝時代は南朝方として守護の小笠原氏と敵対関係となるが、戦国時代は侵略してくる武田に対し小笠原連合に加わるも塩尻峠の戦い前に離脱し武田軍の配下となる道を選ぶ。

北条城見取図②久々にマトモな仕上がりの縄張図(笑)


北條城2 (12)南尾根の最初の郭。

北條城2 (13)貧相な堀切㋓。

亀山城からの大手道は驚くほど何も無い・・・。ここから敵が攻めることなど想定外だったようである。

それもそうであろう、西牧氏が武田氏に鞍替えした時に、北と東側に隣接する領地を持つ二木氏は、小笠原長時を見限る事もなく忠誠を誓い続け、逃げまどう長時を中塔城に迎え籠城戦まで敢行しているのだ。

【本郭~北尾根】

武田氏に降った時点での北条城は恐らく郭1・2・3を置く簡素な詰め城程度だったと思われる。

二木氏が小笠原方である以上、一発触発に備える必要が生じて郭4を中核とした北尾根、東尾根の追加普請を慌てて実行したのであろう。

北條城2 (14)郭1から見下ろした大堀切㋐と郭4方面。この斜面は切岸ではなく堀切の法面として削られたので垂直に近い。

北條城2 (17)城域で最もデカイ堀切㋐は薬研掘。

北尾根も北東尾根も、基本的には段郭を積み重ねていく防御手法で極めてオーソドックス。

塔ノ原氏や会田岩下氏と情報交換すら無かったのか?という縄張りである。

最も「時間が無かった」という云い訳は受け入れられるが・・・。

北條城2 (31)雷鳴神という祠のある郭4。

後から拡張された北尾根と北東尾根の中心的だったのは郭4であろう。

信州の山城に多くみられその特徴とされる段郭であるが、高低差(落差)があれば、下手な堀切で断ち切るよりその防衛効果は絶大である。

北條城2 (35)郭4の先にある段郭。

北尾根にも北東尾根にも堀切は無い。

稜線に対して地道に段郭を刻み対処している。

北條城2 (40)稜線の左右には小さな段郭を伴う。

北條城2 (43)犬走りのような稜線上の細長い郭?

北條城2 (47)先端部は切岸で加工され深い傾斜となる。


【北東尾根】

郭4から北東尾根へは急坂を下った先の緩衝地帯のような尾根を経由する。ここが郭だったのか確証は持てない。

北條城2 (51)八幡社への分岐となる馬の背部分の削平地。

北條城2 (53)東の沢は天然のアレが防御している。

北條城2 (55)北東尾根の段郭群の入り口にある虎口。

北東尾根は十段以上の帯郭を病的に重ねている。

隣の中塔城に逃げ込んだ小笠原長時の復讐に怯えているような造りだ。

北條城2 (58)比較的緩い北の沢に入り込む敵を北尾根の堡塁から同時に挟撃出来る仕組みなのであろう。

北條城2 (64)重ねた郭の数が恐怖の数だったのか?

レベルMAXの防御を敷いているのがよくわかる。

大手への側面移動を阻止するために竪掘まで入れた念の入れようである。

北條城2 (66)北東の斜面に施された立派な竪掘。


【主郭~北西尾根】

三角定規のような郭1(主郭)は土塁が全周していて見ごたえがある。南の虎口もハッキリ残っている。

北條城2 (74)主郭周囲の土塁。

北條城2 (73)南に空いた虎口。

北條城2 (75)素晴らしい角度で西尾根を遮断する堀切㋑。

驚いた事に堀切㋑は二重堀切構造になっているのだ。

元々郭1と郭2の間は一重堀切だったと思われるが、郭2を削ってワザワザ土塁付きの堀を併設している。

二本目ならもっとガンガン掘り割るべきだと思うのだが、中途半端だ・・・・。

その優柔不断さ故に真っ先に「小笠原貞慶 男の血祭り」の一番槍になったのだろうか・・・(汗)

北條城2 (78)

北條城2 (79)削られた郭2(?)

主郭から西側は本来の城域であり、二重堀切と竪掘2本を後から増設した程度の改修に留まったようである。

北條城2 (81)堀切㋒。(上巾9m)

北條城2 (84)郭3の北側切岸斜面から見た堀切㋒とその周辺。

長時さんの幻影に怯えることで城域が拡大したと思われる北条城。

我が世の春と思われた武田配下時代が終わると、西牧氏には厳しい現実の選択肢が待っていたのである。

北條城2 (89)郭3の巨大な石塁は古墳関連か??

北條城2 (95)数段の段郭の施された北西尾根。

北條城2 (97)竪掘りは後から増設したのであろう。

武田氏が滅亡し小笠原貞慶が家康の後ろ盾を得てオヤジの旧領に復帰すると、滋野系海野氏である塔ノ原氏と西牧氏は貞慶に従い、会田岩下氏は上杉氏に従属し家名存続への執念を燃やす。

北條城2 (104)南西の稜線には土橋が存在している。

最後まで長時さんに忠誠を誓っていた二木さんは、貞慶によって西牧氏の所領の一部を宛がわれ、北条城も接収したという。

北条城を追われた西牧氏は田屋城を再興する結論に至ったらしいが、貞慶の復讐劇により滅亡する。

その後、上杉景勝に与した会田岩下氏は捨て駒にされ、貞慶の復讐第二弾で滅亡。

滋野一族で最後まで残った塔ノ原氏も小岩嶽城の古厩氏、赤沢氏とのクーデター計画が発覚し処刑されてしまった。

中信濃で繁栄した滋野一族は戦国の世を渡り切れなかったのである。

北條城2 (108)南西尾根の最終土橋手前の竪掘り。


往時の西牧氏の城下町はかなりの大きさだったという。

また、砦も数多く作られ領国の防衛には余念がなかったとも云われる。

砦群の記載については長野県の歴史を探し求めてに詳しく書かれているので、ご参照願いたい。


≪北条城≫ (きたじょうじょう 西牧城) 

標高:948m 比高240m
築城年代:不明
築城・居住者:西牧氏
場所:松本市梓川北條
攻城日:2013年3月17日 
見どころ:堀切、郭、土塁など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:30分
注意:秋は松茸山なので止めましょう。初冬から春先がお勧め。
付近の見どころ:亀山城、中塔城、田屋城など
参考文献:「図解山城探訪 第六集 安曇史料編 宮坂武男著」
Special thanks:ていぴす殿


sonota 012






スポンサーサイト

Posted on 2013/05/24 Fri. 07:20 [edit]

CM: 4
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top