らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0615

的場城 (伊那市高遠町的場)  

◆高遠城の北を守る詰め城か?◆

北信濃ばかり行っていると、さすがに飽きてくる・・(笑)

4月、南信濃に詳しい「ていぴす」さんにアテンドしていただき、高遠周辺の山城を攻めたみた。

今回ご紹介するのは、ここら辺ではメジャー級の知名度だという「的場城」(まとばじょう)

「えっ、一番有名なのは高遠城でしょ!」全くノー天気でお気楽極楽とはこのことであった・・・・(爆)

的場城 (90)蓮花寺の裏山が的場城。

的場城は三峰川を挟んだ高遠城の北にあり、不動峰(1374m)の南に張り出す支脈上に位置している。

ていぴすさんに案内してもらい蓮華寺の裏山に繋がる七面堂の脇に、とある方の墓があった。

的場城 (10)

五年前に高遠城を訪れた時に、「絵島囲み屋敷」なる場所を見学した。罪人の独房を再建した珍しい例である。

囲み屋敷見取図

正徳四年(1714)に発生した「絵島生島事件」は、単に江戸城大奥の総取締役と芝居役者の色恋沙汰ではなく、その背後に将軍職を巡る熾烈な権力争いが原因あったことは周知の事実である。

死罪を免れ高遠へ流罪となった絵島は、女盛りの33歳から61歳で亡くなるまでの気の遠くなるような28年間を毎日法華経を唱え、ハメ殺し格子の屋敷の八畳間から見える僅かな空間に四季の移ろいを垣間見ていたのであろうか・・・。

その崇高な精神は、小生のような凡人には真似の出来ないある種の「悟り」の境地だったと思われる。

的場城 (4)蓮華寺から見た高遠城。花見客で満員状態。

さて、話を的場城へ戻そう。

この城の生い立ちや城主・城歴については不明なのだが、昭和52年に事前調査、昭和54年に第一次発掘調査が行われ、築城年代は室町中期~後期であると推定されている。

的場城 (14)城址へは、絵島の墓の上の害獣除けフェンスを開けて入り用水沿いに300mほど歩くと三連の木製橋があるのでそこを渡る。

的場城 (15)橋を渡ると大手道思われる削平地付きの登城口があるので迷わないと思われる。

武田さんの征服前は、諏訪神氏の流れを汲む高遠さんがこの地域の領主で、最後の当主の頼継さん時代の版図が最大だった。

諏訪本家乗っ取りを企んで武田晴信さんに相談して、連合軍として諏訪惣領家の諏訪頼重を滅ぼしたまでは計画通りだったが、その後が何かオカシイ・・(汗)

的場城見取図①

諏訪の惣領家にもなれず、上原城は晴信が占領したし、宮川を堺に分割統治?

「何か話が違うなあー」

頼継さん、よせばいいのに実力行使。上原城を落とし破竹の勢いで諏訪郡を制圧。素晴らしい・・(笑)

的場城 (19)

頼継如きは「ゴキブリほいほい」程度の罠で引っ掛けた晴信さん。

難癖つけて頼重に腹を切らせたくせに、頼重の長子(晴信の妹が生んだ子)「虎王丸」を擁立。諏訪地区の住民に本家がどちらかを問い惣領家の家臣を引き連れて、「打倒頼継」の正当化に成功し、宮川の戦いで頼継を破る。

的場城 (20)三角点を過ぎると郭3への入り口。「要害城へようこそ!」

天文十四年四月、武田軍は杖突峠を越えて高遠へ進軍。高遠頼継は所領を捨てて逃げたという。

的場城の謎を知る手掛かりとして唯一の「高白斉記」には以下の記載がある。

【天文十四年巳年(1545)】

四月十一日癸卯、高遠(諏訪頼継の城)に向け御出馬。雨。

四月十四日未刻、上原へ御着城。細雨。

四月十五日丁未、杖突峠御陣所。取らせられ侯と雄も昼夜雨。

四月十七日己酉、諏訪頼継自落。

四月十八日、高遠屋敷御陣所。

四月二十日壬子節、高遠御立。午刻に箕輸(藤沢頼親の城)へ御着陣

的場城 (21)鋭角に東斜面に落ちる堀切㋑。

果たして、高遠氏の屋敷は何処にあったのか?というのが問題になる。

屋敷の場所は現在の高遠城だったのか、それとも別の場所にあったのか。

少なくともこの城では無かったようだ。

的場城 (24)東斜面を回る堀切㋕。


【天文十六年寅年(1547)】

三月八日庚申。各出府。高遠山の城鍬立。

的場城 (28)郭3の南側に展開する横堀㋕。

高白斉記のたった一行の解釈の違いで、この城(的場城)と高遠城は「俄然違った歴史」になる。

的場城 (31)郭3.南の虎口。


高白斉記でいう「高遠御殿」は高遠城を指し、高遠山城は新たに鍬立てした的場城を指す見方もあるようだ。

それも的を得ているような気がする。

別の見方として、天文16年の新城は南信濃の政庁として現在の高遠城を新たに縄張りしたと考えればどうであろうか。

武田氏進駐以前のこの城は、頼継とそれ以前の高遠氏が居館の詰め城(逃げ込み城)として築かれていたものを、武田さんがある時期に強烈に外敵の侵攻を意識して大改修した山城と見る事も出来るような気もする。


【郭3とその周辺】

的場城では最大の広さがあり周囲は土塁で囲まれ二ヶ所開口部がある。

的場城 (32)北から見た郭3。

郭の回りには土手を付けた横堀㋕を穿ち、四本の竪掘を放射状に組み合わせている。

ここが主郭と思わせるような徹底した防御構造で、この城の最大の見どころであろう。

的場城 (30)補助線描くと「もう台無し・・」(笑)

的場城 (34)郭2との連結部分。西側に横堀が続く。


【郭2とその周辺】

郭2も土塁が全周し東西に虎口を開いている。大きさは郭3の1/2程度。

東側の斜面は沢が入り込み傾斜がキツいので、西側のみ切岸+横堀+竪掘の三点セット。これで十分だ。

的場城 (35)郭2の内部(北側より撮影)

的場城 (46)東斜面の横堀+切岸の処理。堀に伐木を入れるのはやめましょう(笑)

「どうしたら城址における堀切以外の土の構造物が見えるようになるのですか?」

という質問を良く受けるようになりました。

「経験や訪れた城の数?」いいえ、違います。「その瞬間だけ往時にタイムトリップしているのです」(笑)

的場城 (47)小生には、こんな感じに見えている。


的場城 (48)西側斜面からみた郭2の虎口。


【郭1とその周辺】

おむすび型の主郭は東の虎口周辺のみ土塁が残る。往時は全周していたのだろう。

周囲の切岸の削り角度を厳しくして東斜面にも竪堀を入れ、北の搦め手側へは横堀と放射状の畝竪掘を組み合わせ最後の砦としている。

的場城 (53)西の竪掘㋚の堀底から見た郭1とその切岸。

的場城 (60)郭1。

的場城 (71)背後の切岸と土手付きの横堀。

信州の山城に多くみられる「バン・バン」と豪快に背後の尾根を叩き割る薬研掘ではなく、「横堀+放射状畝堀」という処理が最後の山城の進化系の終点らしい。

的場城 (70)東斜面を落ちる竪掘㋟。

的場城 (63)東斜面を這う土手付きの横堀。


【郭4とその周辺、見張り場】

頑強な防御を誇る連梯式の的場城には、居住区を想定したと思われる郭4が存在する。

丁寧に削平されたその空間は殺伐とした城域の中では異質なもので、この城の特徴であるように思える。

的場城 (74)土橋のように見える東側の塁線。

的場城 (77)丁寧に削平された広大な郭4。

塁線の東側の斜面には水の手郭があり、土手と竪掘に守られている。

万が一高遠城が落城しても杖突街道から後詰めが来るのであれば、何とか持ちこたえるだろう。

的場城 (79)

的場城 (82)郭4の北側は接続郭を経て見張り場へ続いている。

的場城 (88)削平された尾根先端部の見張り場。残念だが景色は見えない(汗)


【高遠城の防衛砦群の要として】

的場城は守屋山城や山田城と共に高遠城を守るネットワークを構成しており、その役割は非常に重要で防御システムも他の山城を遥かに凌いでいる。

天正十年(1542)三月、武田方の高遠城将仁科五郎信盛は織田軍の攻撃を受け壮絶な最期を遂げたのはご承知の通りである。大軍に囲まれ、後詰め無き籠城戦では的場城も出番などあろうはずも無く打ち捨てられたのであろう。

≪的場城≫ (まとばじょう 城山) 

標高:919m 比高160m
築城年代:不明
築城・居住者:高遠氏? 武田氏
場所:伊那市高遠町的場
攻城日:2013年4月14日 
見どころ:土手付き横堀、放射状畝竪掘、切岸、土塁など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:蓮華寺駐車場より30分
注意:害獣防止用フェンスは開けたら必ず閉める事。
付近の見どころ:守屋山城、山田城、高遠城など
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」
Special Thanks:ていぴす殿

的場城 (40)蓮華寺から見た山田城方面。











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Posted on 2013/06/15 Sat. 13:09 [edit]

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