らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0716

根井氏居館 (佐久市根々井)  

◆謎の根井氏居館◆

夏場は街道巡りを兼ねた峠の旅人を予定していたのだが、こうも早い梅雨明けと強烈な暑さに閉口する(汗)

うら若き乙女の行き倒れなら手厚く葬って貰えても、中年オヤジのドザエモンでは邪魔なだけであろう・・(笑)

今回ご紹介するのは長野県史跡指定の根拠が曖昧な「根井舘」(ねのいやかた)

正法寺(佐久市) (7)こんな立派な標柱作っちゃったし今さら違うとは云えなくなったらしい?

この場所は長野県史跡なのだが、史跡指定の根拠に疑問を投げかける識者は多い。以下、小生が指南本としている「定本 佐久の城」(1997年 郷土出版社)で、木内寛氏は次のような記述をしている。

昭和40年に、根々井の正法寺(真言宗)周辺地籍が、木曾義仲軍の中枢にあって活躍した根井行親の「根井舘跡」として、長野県史跡に指定された。現在そこには遺構らしいものは全く無く、正法寺境内に「根井行親供養塔」t呼ぶ鎌倉時代前期と推定される立派な層塔一基が残って、わずかに根井氏との関わりを物語っているに過ぎない。もっとも、正法寺は古くは北側段丘下にあったと伝えられており、根井氏と寺の関係は明らかではなく、「根井行親供養塔」の原位置も特定出来ない。

正法寺(佐久市) (5)推定鎌倉時代前半造率の多層(五重)塔。行親の妻が建立したものと伝える。

それにもかかわらず、同地籍が史跡指定を7受けた根拠は地名に由来している。正法寺一帯の小字を「亀田」というが、亀田を「構え田」と置き換え、ここを「構え」すなわち舘のあった場所と理解し、関連的に集落や北側段丘上および湯川対岸の地割りや地名を精査したうえで、根井氏居館跡と断定したのである。しかし、この指定にはきわめて初歩的ではあるが見逃すことのできない疑問がつきまとうのである。

正法寺(佐久市) (2)県史跡の説明(言い訳?)看板。

地形的にみると「亀田」地籍は、すぐ南側を流れている湯川の氾濫原であり、湿地帯であったろう。また、その辺りで大きく蛇行する湯川は洪水のたびに「亀田」を水浸しにする危険もあったので、このような場所に本当に館を構築したものだろうかという疑問がわく。そしてこの場所が根々井集落より低地であるということも問題になりそうである。また、湿地帯であるゆえに「亀田」は「構え田」とするより「亀の住んでいる湿田」と理解するほうがより自然で、あえて「構え田」と理解しようとするところに無理を感じるのである。

正法寺(佐久市) (3)寺院=居館跡という安直な発想は最も危険な罠で、慎重にも慎重を期すべしと歴代の研究家は警鐘している。

「信濃の山城と館➊佐久編」でも、著者の宮坂武男氏は「定本佐久の編者に、全く同感である」としている。

素人である小生が口出しするべきではないが、「県史跡」とは、充分な検証(ハード及ぶソフト)が行われた上での認定であると信じて止まない。

現地を徘徊してもそれらしき遺構など皆無だ。度重なる水害で消滅したのだろうか?

根々井館見取図①黒ずんで見える部分は標高差を伴う場所(崖や高台)を示している。

大河ドラマになる可能性は低いが、木曾義仲の隠れファンは意外と多い。

義仲の四天王の根井行親の居館跡としては「??」であり、せっかくお越しいただいてもこの有り様である。

楯六郎親忠(根井行親の子)の館跡は佐久穂町にあるが、はるかにマシな状況である。

正法寺(佐久市) (8)標柱と雰囲気を味わうしか・・・

太平洋戦争前まで「根井氏舘跡」として認識されていた道本城について再度現地調査を行い、色々な角度からこの正法寺付近と比較検討する余地があるように思えます。

その上で、もし誤りであれば、訂正すれば良いと思うのですが・・・・。

≪根井氏居館≫ (ねのいしきょかん)

標高:663.0m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市根々井
攻城日:2013年7月6日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:お寺の駐車場借用
見どころ:根井行親供養塔
注意事項:特に無し
参考文献:「信州の山城と館➊佐久編 宮坂武男著 2012年」「定本佐久の城 郷土出版社 1997年」
付近の城址:道本城、落合城、岩尾城、駒形城、今井城など

正法寺② (2)






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Posted on 2013/07/16 Tue. 06:25 [edit]

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