らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0826
亀山城 (愛知県新城市作手) 
◆奥三河で生き残りを賭けて耐えた奥平氏の居城◆
信濃の城館は飽きた・・・(えーっ、井の中の蛙で頑張るって言ってたくせに・・笑)
ってか、在庫にカビが生えそうなのと撮影した写真が何処の場所なのか記憶が消えかけてきているので、昨年秋に訪れた三河・駿河・遠江の城郭探訪を再開します。
今回ご紹介するのは、長篠城の城将として歴史にその名を刻んだ名将奥平貞昌の出生地である亀山城。
場所は「つくで手作り村(道の駅)」の東隣の小山なので迷う事は無い。
「なんでこんな辺鄙な場所の城に来たの?」(笑)
強烈な信玄公の信者では無いが、戦国時代を解説する以上「長篠の戦い」は避けて通れないしエポックメイキングの場所である古戦場跡や長篠城はもちろん、奥平氏のルーツには触れないと語れないだろうという理由である。
単発の城巡りではダメらしい・・・反省(笑)
事前に下調べをキチンとすれば良かったのだが、ここには亀山城の他に「文殊山城(もんじゅやま)」「石橋城」「川尻城」「塞之神城(さいのかみ)」「古宮城(ふるみや)」があるようで、山城ネットワークが形成されていた・・(汗)
次回のお楽しみを残してしまったと云う訳である(笑)
シロヤシキという地名が示す通り、この場所には奥平一族の主要な居館があったと思われる。
旧作手村(つくでむら 現在の新城市作手)は、今でこそ周囲を600m級の山並みに囲まれた高原の山里で、県内外から多くの観光客が豊かな自然を求めて訪れる場所だが、かつては奥三河の山越えの交通の要衝として人馬の往来の激しかった里であった。
中世には村内に四十か所の城砦が築かれ、奥平氏の領主時代は今川VS武田、今川が滅びると徳川VS武田の大勢力による争奪戦の舞台となり、弱小国人であった奥平氏は存亡を賭けた選択を常に迫られていた。

【城主・城歴】
奥平氏の出自は上野国甘楽郡奥平郷とされ、天授年間(1375~1380)に奥平貞俊が作手に辿り着いたという。
作手領主だった山崎三郎左衛門高元を頼り、鴨ヶ谷甘泉寺に寓居し、勢力人望を得て川尻城を築き更に亀山城を築きこれに移る。
西曲輪と周囲の土塁。
初代貞俊以降二代貞久、三代貞昌、四代貞勝、五代貞能(さだよし)まで五代百六十六年間この地に住し、長篠の戦の三年前の天正元年八月二十日、所謂、田原坂石堂ヶ根の戦を最後に嫡子貞昌、その子信昌と共に作手を去る。
貞昌は長篠の城将となって武田の若き主将勝頼と日本戦史に名を残す長篠の戦を為すに至る。
※貞昌は信昌で同一人物。解説版では親子になっている?
主郭と西曲輪の間の切岸と堀跡。
その後信昌は新城城主となり更に関東へ移封となったが、慶長七年(1602)、信昌の四男松平下総守忠明(後に大阪城、姫路城の城主となる)が、作手藩一万七千石に封ぜられ城は復活したが、同十五年伊勢亀山城に移るに及び廃城となった。
今なお土塁には中世築城の特徴を残す奥三河屈指の城跡である。 (作手村教育委員会)
主郭の東側虎口。往時はもっと狭かったはずである。
「そんなありきたりの説明でいいの??」
仰せの通りでござる・・・(汗)
外郭を土塁で囲まれた主郭。
奥平家の苦悩は、四代目の貞勝が今川から松平(徳川)に帰属した時に終焉したはずだった。
今川⇒織田⇒今川⇒松平(徳川)
そこへ信玄が西上作戦と称して三河へ侵入し奥平氏を恫喝する。
当主貞能は従属を拒否するが、事もあろうに引退していたはずのオヤジ(貞勝)が武田への帰順を勝手に決めてしまった。
「老いては子に従え」というが、この時代は真逆だったらしく貞能は逆らえなかったという。
主郭の北側の腰郭。
奥三河の奥平氏の離反は織田・徳川連合軍にはかなりの痛手だったようだが、自分たちも信玄の為に存亡の危機となりそれどころではない。
元亀三年(1572)十二月、三方ヶ原で家康を破った信玄は三河野田城攻めで越年し一月にこれを落城させた。
しかし、信玄の容体が悪化し西上の軍は行軍を停止せざるを得ない状況になった。
主郭北側の高土塁と切岸。看板が矢留柵めのような雰囲気を醸し出していて面白い。
武田軍は三月に陣を引き払い、甲斐への帰途につくが信濃の伊那駒場付近で信玄は帰らぬ人となった。
意味不明の武田軍の行動に疑問を持った信長だが、奥三河の奥平氏が武田方というのは匕首を突きつけられているのと同じであった。
そこで信長は家康と諮り、家康の長女亀姫を貞能の息子の貞昌(信昌)に嫁がせ領土も加増するという約束で貞能と交渉し、奥平貞能は信玄も既に死んでいるらしいとの情報を得て武田から離反する事を決意し、元亀四年七月頃に貞昌と共に亀山城を退去したという。
城域南の土手付き横堀址。
さすがに貞勝は武田方として作手に残ったようだが、当主貞能の出奔を知った武田勝頼は人質三名を切り捨てた。
徳川に帰参した奥平貞能は家督を貞昌に譲る。その後の奥平氏の活躍はこの場では割愛する。
そう書いてしまうと、オヤジの貞勝はいい加減なジジイと思われそうだが、弱小国人が大勢力の中で生き残るには極めて堅実な方法であり、真田家も兄弟親子で敵味方に分かれた。家名を残すのは必至の時代だったのである。
本郭の東側虎口。
郭2と本郭の連結部分。正面北側は空堀へ続く。城の中枢なので櫓門または矢倉楼閣のようなものがあったと思われる。
郭2.低い土塁がコの字型に囲む。
居館を隣接させたシンプルな平山城である。
横堀に丁寧に削った切岸を多用して土塁を巡らせているので防御力は見てくれよりも高いと思われる。
この北1.5km先にある古宮城は更に武田の技巧を凝縮した遺構を持つ城らしいが、素通りしてしまい比較すら出来なかった・・(汗)
大手方面と思われる郭2への入り口。ここにも門が置かれていたのであろう。
最近知ったのだが、余湖さんは駐車場方面を大手と想定している。戦国時代は居館から登る道を大手としたのはご尤もな話で異論は無い。
廃城前は北側を大手にしたような形跡があり、地名も大手になっている。廃城前は大手口を変更したのであろう。
北側から二の郭方面。大手って感じだよね(笑)
土塁が全周する南曲輪。
本郭の南側の空堀。
奥平氏の器量を見抜いた信長はさすがである。
そして大成するかどうかも分からない青年に長女を嫁がせる家康の度量も凄い。
何よりも素晴らしいのは、長篠城の城将として信長や家康の期待を遥かに超えた信昌本人の努力と忍耐である。
本郭北側の腰曲輪から見た若宮城方面。
諏訪原城も、小山城も、高天神城も良かったんだけど、この城はもっと良かった・・(所詮田舎モンだよね 笑)
その城の規模に似合う堀とは、こういう規模であろう。
≪亀山城≫ (かめやまじょう 作手城)
標高:550.0m 比高:20m
築城年代:不明
築城・居住者:奥平氏
場所:愛知県新城市作手清岳
攻城日:2012年10月10日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:10分 駐車場:道の駅に駐車
見どころ:郭、堀切、高土塁など
注意事項:特に無し
参考文献:-
付近の城址:古宮城、文殊山城、川尻城、石橋城など
その他:小規模ながら中世城郭が楽しめる整備された城跡です。お勧めですね。
国道301号線からも目立つ城です。
信濃の城館は飽きた・・・(えーっ、井の中の蛙で頑張るって言ってたくせに・・笑)
ってか、在庫にカビが生えそうなのと撮影した写真が何処の場所なのか記憶が消えかけてきているので、昨年秋に訪れた三河・駿河・遠江の城郭探訪を再開します。
今回ご紹介するのは、長篠城の城将として歴史にその名を刻んだ名将奥平貞昌の出生地である亀山城。

「なんでこんな辺鄙な場所の城に来たの?」(笑)
強烈な信玄公の信者では無いが、戦国時代を解説する以上「長篠の戦い」は避けて通れないしエポックメイキングの場所である古戦場跡や長篠城はもちろん、奥平氏のルーツには触れないと語れないだろうという理由である。

事前に下調べをキチンとすれば良かったのだが、ここには亀山城の他に「文殊山城(もんじゅやま)」「石橋城」「川尻城」「塞之神城(さいのかみ)」「古宮城(ふるみや)」があるようで、山城ネットワークが形成されていた・・(汗)
次回のお楽しみを残してしまったと云う訳である(笑)

旧作手村(つくでむら 現在の新城市作手)は、今でこそ周囲を600m級の山並みに囲まれた高原の山里で、県内外から多くの観光客が豊かな自然を求めて訪れる場所だが、かつては奥三河の山越えの交通の要衝として人馬の往来の激しかった里であった。
中世には村内に四十か所の城砦が築かれ、奥平氏の領主時代は今川VS武田、今川が滅びると徳川VS武田の大勢力による争奪戦の舞台となり、弱小国人であった奥平氏は存亡を賭けた選択を常に迫られていた。

【城主・城歴】
奥平氏の出自は上野国甘楽郡奥平郷とされ、天授年間(1375~1380)に奥平貞俊が作手に辿り着いたという。
作手領主だった山崎三郎左衛門高元を頼り、鴨ヶ谷甘泉寺に寓居し、勢力人望を得て川尻城を築き更に亀山城を築きこれに移る。

初代貞俊以降二代貞久、三代貞昌、四代貞勝、五代貞能(さだよし)まで五代百六十六年間この地に住し、長篠の戦の三年前の天正元年八月二十日、所謂、田原坂石堂ヶ根の戦を最後に嫡子貞昌、その子信昌と共に作手を去る。
貞昌は長篠の城将となって武田の若き主将勝頼と日本戦史に名を残す長篠の戦を為すに至る。
※貞昌は信昌で同一人物。解説版では親子になっている?

その後信昌は新城城主となり更に関東へ移封となったが、慶長七年(1602)、信昌の四男松平下総守忠明(後に大阪城、姫路城の城主となる)が、作手藩一万七千石に封ぜられ城は復活したが、同十五年伊勢亀山城に移るに及び廃城となった。
今なお土塁には中世築城の特徴を残す奥三河屈指の城跡である。 (作手村教育委員会)

「そんなありきたりの説明でいいの??」
仰せの通りでござる・・・(汗)

奥平家の苦悩は、四代目の貞勝が今川から松平(徳川)に帰属した時に終焉したはずだった。
今川⇒織田⇒今川⇒松平(徳川)
そこへ信玄が西上作戦と称して三河へ侵入し奥平氏を恫喝する。
当主貞能は従属を拒否するが、事もあろうに引退していたはずのオヤジ(貞勝)が武田への帰順を勝手に決めてしまった。
「老いては子に従え」というが、この時代は真逆だったらしく貞能は逆らえなかったという。

奥三河の奥平氏の離反は織田・徳川連合軍にはかなりの痛手だったようだが、自分たちも信玄の為に存亡の危機となりそれどころではない。
元亀三年(1572)十二月、三方ヶ原で家康を破った信玄は三河野田城攻めで越年し一月にこれを落城させた。
しかし、信玄の容体が悪化し西上の軍は行軍を停止せざるを得ない状況になった。

武田軍は三月に陣を引き払い、甲斐への帰途につくが信濃の伊那駒場付近で信玄は帰らぬ人となった。
意味不明の武田軍の行動に疑問を持った信長だが、奥三河の奥平氏が武田方というのは匕首を突きつけられているのと同じであった。
そこで信長は家康と諮り、家康の長女亀姫を貞能の息子の貞昌(信昌)に嫁がせ領土も加増するという約束で貞能と交渉し、奥平貞能は信玄も既に死んでいるらしいとの情報を得て武田から離反する事を決意し、元亀四年七月頃に貞昌と共に亀山城を退去したという。

さすがに貞勝は武田方として作手に残ったようだが、当主貞能の出奔を知った武田勝頼は人質三名を切り捨てた。
徳川に帰参した奥平貞能は家督を貞昌に譲る。その後の奥平氏の活躍はこの場では割愛する。
そう書いてしまうと、オヤジの貞勝はいい加減なジジイと思われそうだが、弱小国人が大勢力の中で生き残るには極めて堅実な方法であり、真田家も兄弟親子で敵味方に分かれた。家名を残すのは必至の時代だったのである。



居館を隣接させたシンプルな平山城である。
横堀に丁寧に削った切岸を多用して土塁を巡らせているので防御力は見てくれよりも高いと思われる。
この北1.5km先にある古宮城は更に武田の技巧を凝縮した遺構を持つ城らしいが、素通りしてしまい比較すら出来なかった・・(汗)

最近知ったのだが、余湖さんは駐車場方面を大手と想定している。戦国時代は居館から登る道を大手としたのはご尤もな話で異論は無い。
廃城前は北側を大手にしたような形跡があり、地名も大手になっている。廃城前は大手口を変更したのであろう。



奥平氏の器量を見抜いた信長はさすがである。
そして大成するかどうかも分からない青年に長女を嫁がせる家康の度量も凄い。
何よりも素晴らしいのは、長篠城の城将として信長や家康の期待を遥かに超えた信昌本人の努力と忍耐である。

諏訪原城も、小山城も、高天神城も良かったんだけど、この城はもっと良かった・・(所詮田舎モンだよね 笑)

≪亀山城≫ (かめやまじょう 作手城)
標高:550.0m 比高:20m
築城年代:不明
築城・居住者:奥平氏
場所:愛知県新城市作手清岳
攻城日:2012年10月10日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:10分 駐車場:道の駅に駐車
見どころ:郭、堀切、高土塁など
注意事項:特に無し
参考文献:-
付近の城址:古宮城、文殊山城、川尻城、石橋城など
その他:小規模ながら中世城郭が楽しめる整備された城跡です。お勧めですね。

Posted on 2013/08/26 Mon. 22:47 [edit]
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