らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0829
野田城 (愛知県新城市豊島) 
◆巨星墜つ~信玄公の最後の城攻め◆
のほほんと佐久地方のゴミのような砦でも記事にしていれば、下調べにも困らないだろう。
三河あたりの城跡は天下の行く末に関わっているので、田舎者が掲載するには恐れ多い・・(汗)
間違った事を書こうものなら炎上必死である・・(笑)
今回ご紹介するのは「信玄、スナイパーに斃れる!」伝説の残る野田城。
信玄公が最後に城攻めの極意を勝頼に悟らせたという野田城。
「今宵はここまでに致しとうござりまする」信玄の母である大井夫人を演じた若尾文子の名セリフである。
昭和63年(1988)1月に始まったNHK大河ドラマ「武田信玄」(中井貴一主演 全50回)は毎週欠かさず見て、新田次郎の原作本はもちろん、武田信玄に関する関連本は片っ端から読破した。
残念ながら、この時には中世城郭探訪のスイッチは押されなかったようである・・・・(笑)
ただ、信玄の最後の野田城攻めの描写は深く記憶に刻まれ、いつか訪れたいという思いは消えなかった。
城跡の説明板。
25年の想いは、ようやく探し当てた現地で潰えた(汗)
信玄の病状回復の為に行軍を停止したとはいえ、三方ヶ原で徳川家康を蹴散らした西上の軍三万ともいわれた武田軍が、1ヶ月かけていたぶる城の規模であろうか?
現地の見取図で「はあ、そうですか・・」とは思えないので、現在の地図に往時の推定の図面を上書きして妄想で描いてみた。

搦め手方面の南側には川幅の広い豊川が流れ、約10km上流には長篠城がある。
半島状に突き出た河岸段丘を利用して築かれた野田城は、東に「桑淵」西に「龍淵」という深い断崖で守られ更に河川をせき止めて深い水堀にしていたらしく、攻め口は北側の大手口のみである。
なるほど、後詰めが期待できるのであれば籠城戦向きの縄張りである。
現在の郭3.こんなに狭いはず無いでしょ。
【城主・城歴】
山家三方衆の「田峰菅沼氏」の定忠の三男定則が、永正二年(1505)に設楽郡を支配していた富永氏の後嗣として富永館に入ったのが始まりとされる。
居館は防御も脆弱で豊川の氾濫による水害にも見舞われたため、新たに野田城を築城したという。
当初は今川に属して各地を転戦し功績を上げ、一時期は松平清康(家康の祖父)に鞍替えするも清康が死ぬと再び今川へ乗り換える。
天文十三年(1544)に嫡子の定村が跡を継ぐ。
弘治二年(1556)に作手の奥平貞勝(亀山城を参照)が田峰菅沼氏と共に織田方に乗り換えた為、今川氏より他の三河の諸将とともに鎮圧を命じられ合戦となる(雨山合戦)。定村は戦の最中に敵の矢に射抜かれ即死。
戦死した父の跡を継ぎ定盈(さだみつ)が当主となる。今川義元が桶狭間で討たれると、徳川家康に従属。
翌年、今川軍に野田城を落とされるという失態があったものの、すぐさま夜襲にて奪還している。
小部隊ながら遠江を巡る武田VS徳川の戦いには戦功をたてたという。
坂茂木で周囲を囲われた郭2と根古屋村の立て看板(往時の地名だという)
【野田城の戦い】
元亀三年(1573)12月、三方ヶ原の戦いで徳川軍を散々に打ち破った三万の武田軍は浜名湖湖畔の刑部村で越年し翌年三河へ侵入し、徳川方の属城であった野田城を包囲する。
この時の城将は菅沼定盈で守備兵は約500名程度だったという。(現在の城跡での収納はとても不可能だ・・笑)
通常、城攻めには5倍の兵力といわれるが、30倍の兵力というのも凄まじい・・・(汗)
まあ、実際に攻城戦に回された人数は三千程度だと云われているが。
郭1と郭2の間の堀跡。
このとき既に病床にあった武田信玄は野田城攻撃の総大将である勝頼を枕元に呼びつけて野田城の攻め方を聞いたという。
以下、新田次郎の「武田信玄 山の巻」より引用してみた。
「せいぜい五百人の軍勢がこもっておる小城故に、人数が揃ったところでひと押しにもみ落とします」
と強い調子で答えた。
「野田城の図面を見よ。ひと押しに落とせる城かどうかが分かるだろう。城は大、小には関わりなく、第一に城を守っている者の士気、第二にはその城自体の構造にある。野田城は二股城に良く似た構造の城であり、これを守る菅沼定盈以下五百の三河勢も強者揃いと聞いておる。簡単に考えてはならぬ。小城を攻めるのに大軍を以てするは愚かなることである。五百を討ちとるのに、五百以上の損害を出したら勝ったとは云えぬ。落城を急がねばならぬ戦局の時は、千、二千を失っても、五百人の籠っている城を取らねばならぬこともあるが、朝倉義景が軍を退いてしまった現在においては、西上を急ぐ事はかえって不利である。落ち着いて油断なく攻めるのが良い。このような時には兵を一人たりとも無駄死にさせてはならぬ。五百の城兵に対しては五百以上の兵を向けるべきではない。五百の兵を用いて落とす事を考えよ」(原文ママ)
郭2から続く土橋の先の郭1.
※話は逸れるが、新城市の町おこしのイベントとして昨年から城跡で「新城笛の盆 野田城伝」が行われている。写真に写っている竹製の柵や小屋組はその時の名残のようだ。
まあ、それにしても午後の演奏会は有料でやってるらしいので、片づけていただかないと雰囲気台無しである。

確かに連梯式の小さな城だが、大手からの無理押しは相当な犠牲を強いられる。
勝頼は、崖淵となっている東西の城壁が脆い事に気が付いた。
「そうだ、金堀人夫を使って城を掘り崩してしまおう」
勝頼の案なのかは物語の創作であるが、黒川金山の坑道人夫が穴掘りに投入されたのは事実だという。
城の東西から500人の抗夫が穴を掘り始めた。城の守備兵も気が付き鉄砲等で妨害するが、逆に武田軍の攻撃に晒される結果となりなすがままであったという。
本郭跡の石碑。
地下から響く不気味な音と、城内を分断される危険を感じた城兵は、郭3と郭2を放棄し本郭へ移動する。
労せずして城の半分を占拠した武田軍は相変わらず静観している。
本郭の作業坑道では、水の手を探し当てて断ち切った。井戸はたちまち枯れ、城兵は水不足に陥ったという。
徳川家康は、野田城が陥落すれば三河の防衛網が破たんし岡崎城・吉田城も危機に陥る事を承知していたが、三方ヶ原の敗戦で後詰めするだけの兵力もなく見殺しにするしかなかった。
井戸跡。枯れたままだ(汗)
(実は、この攻城戦はカモフラージュであり、武田軍の真の目的は三河における重要戦略拠点の長篠城の拡大補強であったという。事実、武田軍の主力部隊は昼夜兼行の土木工事で長篠城を難攻不落の要塞に仕上げている)
狭い本郭に城兵五百がひしめき合い、水も無くなればいくら屈強の三河兵といえども死を待つほか無いだろう。
城将の菅沼定盈は、武田勝頼に城兵の命の保証を交換条件に城の明け渡しを申し出た。
勝頼もこれを了承し、菅沼定盈と援軍の将の松平忠正は武田軍の捕虜となった。
一月十五日の攻撃開始からちょうど一ヶ月後の二月十五日に野田城の戦いは終わった。
南側より見た主郭。
この頃より信玄の病状は悪化し、長篠城または近くの鳳来寺で療養していたという。
その後、三月十五日には徳川方と捕虜の交換が行われ、山家三方衆の人質と菅沼定盈・松平忠正が長篠城付近でそれぞれの軍に返された。・菅沼定盈は強運の持ち主だったのである。
城内の掘立建物もこんな感じの粗末なものだったのであろうか。
【狙撃伝説】
信玄の死因は病死であり、労咳(肺結核)というのが定説だが、異説として野田城包囲中に狙撃された傷が原因で死亡したという説がある。
「松平記」によれば、野田城の守備兵の中に村松芳休という笛の名手がいて、毎夜溢れんばかりの美しい音色の笛を吹き、守備兵や攻城兵の心に染み透っていったという。
武田信玄もその美しい音色に誘われ、毎夜城内が見える場所に腰かけ音色に聞き入っていたという。
二月九日の夜、その音色をかき消す一発の銃声が轟いたかと思うと、攻城軍の陣営は急に物々しい騒ぎとなった。
「お館様が撃たれた・・・・」
定盈の家臣で鉄砲の名手である鳥居三左衛門はニヤリともせずにその場を立ち去ったという。
狙撃推定値。ここから約100m先の信玄を狙ったと云う。
「そんなの作り話でしょ!」という輩もいらっしゃるかと思うが、西上作戦の夢を断たれたのが、たった一発の弾丸だった・・というのもありかなーと思ってます。
この時に使用されたとされる火縄銃の銃身(武田砲)が設楽原歴史資料館に展示してある。
もちろん見てきましたよ。日本に残る最古の火縄銃らしいです。しかも銃身だけ・・(汗)
ひょっとして撮影禁止だったかしら(汗)
当時の火縄銃の射程距離が約70m程度と云われているので、もし当たったとすればかなりマグレっぽい(笑)
そういえば、信長さんもスナイパーにやられてたような史実もあるみたいなんで一概に嘘とも言えない。
まあ、長々とお伝えしてきましたが、こんな有名な城なのに記載されている方の少ない事には閉口。
信玄公もおっしゃってましたね「城の大小ではない」って・・(笑)
ピンボケご容赦。本郭東の高土塁。
≪野田城≫ (のだじょう 根古屋城)
標高:50.0m 比高:-
築城年代:不明
築城・居住者:菅沼氏
場所:愛知県新城市豊島
攻城日:2012年10月10日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:0分 駐車場:城跡看板前に路駐
見どころ:郭、堀切、高土塁など
注意事項:特に無し
参考文献:-
付近の城址:長篠城、田峯城、亀山城、岡崎城、吉田城などきりがない。
その他:対岸に信玄公が狙撃された場所の碑があるらしい。
笛の演奏に興味のある方は来週行われる「野田城伝」へどうぞ!

のほほんと佐久地方のゴミのような砦でも記事にしていれば、下調べにも困らないだろう。
三河あたりの城跡は天下の行く末に関わっているので、田舎者が掲載するには恐れ多い・・(汗)
間違った事を書こうものなら炎上必死である・・(笑)
今回ご紹介するのは「信玄、スナイパーに斃れる!」伝説の残る野田城。

「今宵はここまでに致しとうござりまする」信玄の母である大井夫人を演じた若尾文子の名セリフである。
昭和63年(1988)1月に始まったNHK大河ドラマ「武田信玄」(中井貴一主演 全50回)は毎週欠かさず見て、新田次郎の原作本はもちろん、武田信玄に関する関連本は片っ端から読破した。
残念ながら、この時には中世城郭探訪のスイッチは押されなかったようである・・・・(笑)
ただ、信玄の最後の野田城攻めの描写は深く記憶に刻まれ、いつか訪れたいという思いは消えなかった。

25年の想いは、ようやく探し当てた現地で潰えた(汗)
信玄の病状回復の為に行軍を停止したとはいえ、三方ヶ原で徳川家康を蹴散らした西上の軍三万ともいわれた武田軍が、1ヶ月かけていたぶる城の規模であろうか?
現地の見取図で「はあ、そうですか・・」とは思えないので、現在の地図に往時の推定の図面を上書きして妄想で描いてみた。

搦め手方面の南側には川幅の広い豊川が流れ、約10km上流には長篠城がある。
半島状に突き出た河岸段丘を利用して築かれた野田城は、東に「桑淵」西に「龍淵」という深い断崖で守られ更に河川をせき止めて深い水堀にしていたらしく、攻め口は北側の大手口のみである。
なるほど、後詰めが期待できるのであれば籠城戦向きの縄張りである。

【城主・城歴】
山家三方衆の「田峰菅沼氏」の定忠の三男定則が、永正二年(1505)に設楽郡を支配していた富永氏の後嗣として富永館に入ったのが始まりとされる。
居館は防御も脆弱で豊川の氾濫による水害にも見舞われたため、新たに野田城を築城したという。
当初は今川に属して各地を転戦し功績を上げ、一時期は松平清康(家康の祖父)に鞍替えするも清康が死ぬと再び今川へ乗り換える。
天文十三年(1544)に嫡子の定村が跡を継ぐ。
弘治二年(1556)に作手の奥平貞勝(亀山城を参照)が田峰菅沼氏と共に織田方に乗り換えた為、今川氏より他の三河の諸将とともに鎮圧を命じられ合戦となる(雨山合戦)。定村は戦の最中に敵の矢に射抜かれ即死。
戦死した父の跡を継ぎ定盈(さだみつ)が当主となる。今川義元が桶狭間で討たれると、徳川家康に従属。
翌年、今川軍に野田城を落とされるという失態があったものの、すぐさま夜襲にて奪還している。
小部隊ながら遠江を巡る武田VS徳川の戦いには戦功をたてたという。

【野田城の戦い】
元亀三年(1573)12月、三方ヶ原の戦いで徳川軍を散々に打ち破った三万の武田軍は浜名湖湖畔の刑部村で越年し翌年三河へ侵入し、徳川方の属城であった野田城を包囲する。
この時の城将は菅沼定盈で守備兵は約500名程度だったという。(現在の城跡での収納はとても不可能だ・・笑)
通常、城攻めには5倍の兵力といわれるが、30倍の兵力というのも凄まじい・・・(汗)
まあ、実際に攻城戦に回された人数は三千程度だと云われているが。

このとき既に病床にあった武田信玄は野田城攻撃の総大将である勝頼を枕元に呼びつけて野田城の攻め方を聞いたという。
以下、新田次郎の「武田信玄 山の巻」より引用してみた。
「せいぜい五百人の軍勢がこもっておる小城故に、人数が揃ったところでひと押しにもみ落とします」
と強い調子で答えた。
「野田城の図面を見よ。ひと押しに落とせる城かどうかが分かるだろう。城は大、小には関わりなく、第一に城を守っている者の士気、第二にはその城自体の構造にある。野田城は二股城に良く似た構造の城であり、これを守る菅沼定盈以下五百の三河勢も強者揃いと聞いておる。簡単に考えてはならぬ。小城を攻めるのに大軍を以てするは愚かなることである。五百を討ちとるのに、五百以上の損害を出したら勝ったとは云えぬ。落城を急がねばならぬ戦局の時は、千、二千を失っても、五百人の籠っている城を取らねばならぬこともあるが、朝倉義景が軍を退いてしまった現在においては、西上を急ぐ事はかえって不利である。落ち着いて油断なく攻めるのが良い。このような時には兵を一人たりとも無駄死にさせてはならぬ。五百の城兵に対しては五百以上の兵を向けるべきではない。五百の兵を用いて落とす事を考えよ」(原文ママ)

※話は逸れるが、新城市の町おこしのイベントとして昨年から城跡で「新城笛の盆 野田城伝」が行われている。写真に写っている竹製の柵や小屋組はその時の名残のようだ。
まあ、それにしても午後の演奏会は有料でやってるらしいので、片づけていただかないと雰囲気台無しである。

確かに連梯式の小さな城だが、大手からの無理押しは相当な犠牲を強いられる。
勝頼は、崖淵となっている東西の城壁が脆い事に気が付いた。
「そうだ、金堀人夫を使って城を掘り崩してしまおう」
勝頼の案なのかは物語の創作であるが、黒川金山の坑道人夫が穴掘りに投入されたのは事実だという。
城の東西から500人の抗夫が穴を掘り始めた。城の守備兵も気が付き鉄砲等で妨害するが、逆に武田軍の攻撃に晒される結果となりなすがままであったという。

地下から響く不気味な音と、城内を分断される危険を感じた城兵は、郭3と郭2を放棄し本郭へ移動する。
労せずして城の半分を占拠した武田軍は相変わらず静観している。
本郭の作業坑道では、水の手を探し当てて断ち切った。井戸はたちまち枯れ、城兵は水不足に陥ったという。
徳川家康は、野田城が陥落すれば三河の防衛網が破たんし岡崎城・吉田城も危機に陥る事を承知していたが、三方ヶ原の敗戦で後詰めするだけの兵力もなく見殺しにするしかなかった。

(実は、この攻城戦はカモフラージュであり、武田軍の真の目的は三河における重要戦略拠点の長篠城の拡大補強であったという。事実、武田軍の主力部隊は昼夜兼行の土木工事で長篠城を難攻不落の要塞に仕上げている)
狭い本郭に城兵五百がひしめき合い、水も無くなればいくら屈強の三河兵といえども死を待つほか無いだろう。
城将の菅沼定盈は、武田勝頼に城兵の命の保証を交換条件に城の明け渡しを申し出た。
勝頼もこれを了承し、菅沼定盈と援軍の将の松平忠正は武田軍の捕虜となった。
一月十五日の攻撃開始からちょうど一ヶ月後の二月十五日に野田城の戦いは終わった。

この頃より信玄の病状は悪化し、長篠城または近くの鳳来寺で療養していたという。
その後、三月十五日には徳川方と捕虜の交換が行われ、山家三方衆の人質と菅沼定盈・松平忠正が長篠城付近でそれぞれの軍に返された。・菅沼定盈は強運の持ち主だったのである。

【狙撃伝説】
信玄の死因は病死であり、労咳(肺結核)というのが定説だが、異説として野田城包囲中に狙撃された傷が原因で死亡したという説がある。
「松平記」によれば、野田城の守備兵の中に村松芳休という笛の名手がいて、毎夜溢れんばかりの美しい音色の笛を吹き、守備兵や攻城兵の心に染み透っていったという。
武田信玄もその美しい音色に誘われ、毎夜城内が見える場所に腰かけ音色に聞き入っていたという。
二月九日の夜、その音色をかき消す一発の銃声が轟いたかと思うと、攻城軍の陣営は急に物々しい騒ぎとなった。
「お館様が撃たれた・・・・」
定盈の家臣で鉄砲の名手である鳥居三左衛門はニヤリともせずにその場を立ち去ったという。

「そんなの作り話でしょ!」という輩もいらっしゃるかと思うが、西上作戦の夢を断たれたのが、たった一発の弾丸だった・・というのもありかなーと思ってます。
この時に使用されたとされる火縄銃の銃身(武田砲)が設楽原歴史資料館に展示してある。
もちろん見てきましたよ。日本に残る最古の火縄銃らしいです。しかも銃身だけ・・(汗)

当時の火縄銃の射程距離が約70m程度と云われているので、もし当たったとすればかなりマグレっぽい(笑)
そういえば、信長さんもスナイパーにやられてたような史実もあるみたいなんで一概に嘘とも言えない。
まあ、長々とお伝えしてきましたが、こんな有名な城なのに記載されている方の少ない事には閉口。
信玄公もおっしゃってましたね「城の大小ではない」って・・(笑)

≪野田城≫ (のだじょう 根古屋城)
標高:50.0m 比高:-
築城年代:不明
築城・居住者:菅沼氏
場所:愛知県新城市豊島
攻城日:2012年10月10日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:0分 駐車場:城跡看板前に路駐
見どころ:郭、堀切、高土塁など
注意事項:特に無し
参考文献:-
付近の城址:長篠城、田峯城、亀山城、岡崎城、吉田城などきりがない。
その他:対岸に信玄公が狙撃された場所の碑があるらしい。
笛の演奏に興味のある方は来週行われる「野田城伝」へどうぞ!

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Posted on 2013/08/29 Thu. 18:17 [edit]
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