らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0905

小山城 (静岡県椿原郡吉田町片岡)  

◆三重の三日月堀が美しき武田の城の最終形◆

先日の日曜日に人生初の「朝ラー」(※朝からラーメン)なるものを食した。

若気の至りなら許せるが、壮年の過ちに近い暴挙であることは、昼飯が全く食べられなかった事が証明した(汗)

朝からカレーは「有り」だが、朝からラーメンは如何なものか・・でも美味いのでやめられない・・(笑)

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らあめんひばりや
〒386-0024 上田市大手1-10-5
TEL 0268-75-7988

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話は逸れてしまったが、今回ご紹介するのは遠江に信玄が楔を打ち込んだ要害「小山城」。

小山城(遠江) (1)東名高速の吉田ICから南東1kmの能満寺公園が城跡である。

立地は牧之原台地から東南の大井川に向けた河岸段丘の先端にある。

ここから大井川の上流10kmには諏訪原城があり、徳川との盟約上の領土境界線の防衛最前線という見方も出来るが、徳川領へ侵入するための境目の城と見て間違いないだろう。

小山城(遠江) (4)登り口にある能満寺。往時は泥田あるいは湿田だったのだろうか?

【城主・城歴】

永禄十一年(1568)、武田晴信(信玄)は今川領であった駿河に侵攻。その年の四月、今川方の小山城の城将窪田介之丞は戦死。翌月に徳川方の松平真乗が小山城に入る。(どうやら漁夫の利だったらしい)

翌年二月に武田軍が駿河に再度侵入し小山城から松平真乗を駆逐し、三月には駿河全土を掌握し武田領とした。

小山城(遠江) (6)能満寺曲輪への登り口。

五月に徳川軍は遠江の掛川城を制圧し、大井川を境とする取り決めが武田と徳川との間で交わされる。

「約束は破るためにある」

信玄がそう云ったか知らないが(笑)、大井川を越えた遠江領の金谷に砦を築き(諏訪原城の前身)、元亀元年(1570)になると、徳川に譲渡した小山城を急襲し金山付近に滞留していた徳川軍を蹴散らす。

小山城(遠江) (7)能満寺曲輪に建つ虚空蔵尊。

家康は抗議するが、役者が二枚も三枚も上手の信玄はのらりくらりとこれをかわし、元亀二年(1571)に城を大幅に改修し、城将として大熊備前守長秀を置く。縄張りは馬場信春の監修らしいが、定かではない。

※この大熊さんは、もともと長尾景虎(上杉謙信)の配下の武将であったが、出奔を繰り返していた景虎に愛想を尽かし武田氏に鞍替え。武田氏滅亡後は真田昌幸の配下として活躍して真田信之の松代移封に従っている。

小山城見取図①敢えて小山城の最大の売りである二の郭にある三日月堀と丸馬出しを点線で表記した訳は?

元亀三年に武田信玄は西上の軍を起こし、三万(または三万五千)の兵で遠江・三河へ侵入するも、翌年四月に病死。

跡を継いだ勝頼は秋に諏訪原城を築城し、天正二年(1574)には信玄も落とせなかった高天神城の奪取に成功する。

小山城(遠江) (8)周囲三方を険しい崖淵で守られた本郭。

勝頼の得意絶頂は張り詰めた糸であり、天正三年(1575)五月の長篠の戦いであっけなく音を立てて切れた。

その後の武田家の凋落は今さら小生が解説するまでも無いが、小山城は天正十年(1582)二月に甲州征伐で武田家が滅亡しても、武田の城として生きながらえたのである。

家康が城攻めがヘタクソだったと云う事を差し引いても(爆)、駿河の田中城(城将:依田信蕃)、遠江の小山城(城将:大熊長秀)は優秀な指揮官のもとでは、絶対に落城しない縄張りだった事が証明された。

小山城(遠江) (14)模擬天守は余計な造作物だが、丸馬出しや三重の三日月堀を上空から観察する施設と考えれば腹もたつまい・・(笑)

防御構造や縄張りにおいての諏訪原城は規模も大きく小山城よりも優れているように見えるが、籠城戦における「城正面」という原点を考えた場合、尾根が広がり過ぎた諏訪原城は兵力を分散してしまう欠陥があった。

小山城は三重三日月堀が実戦において恐ろしい威力を発揮することを見事に証明した。

小山城(遠江) (25)二の曲輪外側の土手付き堀切。

小山城(遠江) (26)水堀だったのかは不明だが、空掘だとしても箱掘として一定の深さがあるので問題ないでしょう。

丸馬出しと三日月堀は甲州流築城技術の特徴と云われる。

徳川家康は武田滅亡後に、武田信玄の領土であった信濃と甲斐を手に入れる事に執念を燃やしたが、武田氏の旧臣と召抱えと軍事機密の掌握と踏襲にも力を注いだのだという。

武田氏所領時代に築かれた武田流の城(改修も含む)は数多く残っているが、武田氏の遺領を拝領した徳川氏は既存の武田氏の城を改修した例が多いと聞き及ぶ。

なので、純粋に甲州流の築城方式を残した城跡は皆無ではないのか?という疑問もあるという。

小山城(遠江) (32)意図的に高低差を付けたであろう二の曲輪の箱掘。美しい。

小山城は甲州征伐が始まると同時に城兵が逃亡し、徳川が接収した。

諏訪原城は早い段階で徳川が攻め落とし、高天神城攻めには重要な拠点だったし、戦後も地域における抑えの城として改修を受ける。

それに対して小山城は特に手を加える事もなく、廃城になったと思われる。

この城の特徴は何と言ってもその美しき巨大な三重の三日月堀であろう。

小山城(遠江) (39)三日月堀。

小山城(遠江) (42)堀底に立って撮影。かなりデカイ。


小山城(遠江) (44)巨大な土手付きの堀は壁のようでもある。

ここまで見た方は「えっ?有名な丸馬出しは?」と思うだろう。

仰せの通り、二の曲輪には立派な丸馬出しと三日月堀が復元されている。

小山城(遠江) (11)

畑となり埋まっていたものを掘り起こし再現したようだ。

存在は否定しないが最終形の縄張りでは邪魔なのである・・(笑)

小山城(遠江) (20)まさしく整形美人である。

二の曲輪で、こんなに面積を取る防御施設が必要だろうか?

築城初期の段階では良かったが、城の拡張に伴い三重の三日月堀を施工した時点で潰されたのではないか?と思うが如何でしょうか?

小山城(遠江) (34)擬似大手門も復元されているが、擬似天守閣同様にやり過ぎ感は否めない。

小山城(遠江) (70)主郭を囲む土塁。往時はもっと高かったんでしょうね。

まあ、それでも小山城に賭ける地元の方の熱意がひしひしと伝わってきます。

上田城もあんな腐りかけた博物館でいいのか?というやる気の無さとは対称的です・・(汗)

小山城(遠江) (73)このアングル・・好きです(笑)

天守閣は博物館になっています。お金を払って入城する価値はあります。

丸馬出しや城の縄張りがじっくりと観察できますもの。

小山城(遠江) (84)

小山城(遠江) (88)三連の三日月堀は残念ながら林の中で観れません。

小山城(遠江) (91)駿河湾方面。絶景でございますw

なんやかんや云いましたが、そうは云っても甲州流の築城方式の素晴らしさを全身で感じる事の出来る城跡です(おおげさかいなあー 笑)

≪小山城≫ (こやまじょう)

標高:40.0m 比高:35m
築城年代:不明
築城・居住者:今川氏、徳川氏、武田氏
場所:静岡県椿原郡吉田町片岡
攻城日:2012年10月8日 
お勧め度:★★★★★(色々ケチつけても満点!) 
城跡までの所要時間:5分 駐車場:有り
見どころ:三重の三日月堀、復元丸馬出しと三日月堀など
注意事項:特に無し
参考文献:-
付近の城址:沢山あります(笑)

小山城(遠江) (97)駐車場からみた小山城全景。







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Posted on 2013/09/05 Thu. 07:35 [edit]

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