らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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高天神城① (静岡県掛川市上土方嶺向)  

◆難攻不落の名城を巡る徳川VS武田の十年間の仁義なき戦い◆

川中島合戦ほど全国区では無いが、「高天神城の戦い」も歴史好きが集う話題である。

「今さら信州の山猿の戯言など聞きとうないわい!」

まあ、そうおっしゃらずに、せっかく遠州まで物見遊山に出掛けたのでお付き合い下さいませ・・(汗)

高天神城(遠江) (2)往時の妄想が掻き立てられる搦め手門跡の看板。(追手門にもあります)

小生が高天神城の攻防を知ったのは新田次郎の小説「武田信玄」であったと思うが、戦国時代だけを生きた稀有な城としてハッキリ認識したのは「戦国の城」(2007年 学研新書 小和田哲男著)であった。

この本は、6年前に頂戴した本で小生が中世城郭についての基礎を学んだ入門書である。

「逢いたい気持ち」を胸に閉まったままの六年間・・・それは長かったような短かったような・・

高天神城(遠江) (5)搦め手の史跡碑。

高天神城の立地と構造、さらに城歴(徳川の城となるまで)の前半の経緯は、小生の拙い文書よりも、小生が尊敬してやまない小和田哲男氏の「戦国の城」から高天神城の解説の記載を引用したいと思います。

※引用元 「戦国の城」 学研新書003 著者:小和田哲男 発行:2007年6月15日

『戦国争乱の舞台となった戦国の城-高天神城の武田・徳川の攻防を例に』

【今井の城から徳川の城へ】

私が、いくつもある城の中からここで高天神城を選んだのは、一つは、この高天神城が戦国時代にしか使われていないからである。典型的な戦国の城といってよく、また、江戸時代には使われていないため、戦国時代の遺構がそのまま残っているのも魅力である。

そしてもう一つは、高天神城を舞台に、武田信玄とその子勝頼と、徳川家康とが、実に10年にもわたって攻防を繰り返しており、戦国の城を舞台にした戦いの様子が、遺構と文献の両方から明らかにできると考えたからである。

高天神城の位置
「戦国の城」序章49頁の高天神城とその周辺地図を引用転載。

まず、高天神城の位置関係を地形について概略をみておこう。上の図に示したように、大井川の南西、遠州灘に近いところに位置し、牧ノ原台地と小笠山陵にはさまれた独立丘陵で、標高132nに鶴翁山(かくおうざん)を中心に、放射状にのびるいくつかの尾根と、尾根にはさまれた谷を使った城である。
麓からの高さ、すなわち比高は104メートルで、ふつう、100メートル以上を山城の範疇に入れているので、ぎりぎり山城に分類される。

東海道(国道1号線)からも、浜街道(国道150号線)からも離れていて、交通上の要衝でも何でもない場所にこの城が築かれたのは、独立丘陵だということと、見晴らしのよさが大きな理由だったと思われる。それとともに、ちょうど、屋根がやつでの葉のように入り組んでおり、谷がいりこむ形の複雑な地形で、防御を主体とする山城にはうってつけの場所だったといえる。
しかも、その周囲には、小笠川などの中小河川が流れ、天然の堀となっていて、守るには守りやすく、攻めるに攻めにくい城ができあがったのである。

高天神城縄張図(見崎閧雄作図)
「戦国の城」序章51頁の高天神城縄張図を引用転載。

さて、その縄張であるが、上記の図に示したように、大木、東峯と西峯という二つの部分からなっていた。一つの山の中に、二つの城をドッキングさせた形である。
この図からもうかがわれるように、小さな尾根が櫛の歯のように出っ張っており、これは、軍学者のいう「横矢掛(よこやがかり)」にうってつけの地勢であった。
城を攻める場合、攻める側は、急な断崖のようになっている斜面をそのまま攻めのぼる事はできず、いきおい、谷の奥に進み、そこから比較的ゆるやかな斜面のところをみつけ、そこにとりついて攻めのぼることになるが、高天神城の場㋐、この図からも明らかなように、橘ヶ谷、鹿ヶ谷、地境ヶ谷などの谷がいりこむ形となっていたため、攻める進路は尾根に築かれた曲輪にはさまえた格好になる。つまり、両サイドから矢とか鉄砲の攻撃をもろに受けたわけである。
高天神城が「難攻不落の名城」とうたわれた理由の一つがこれであった。

高天神城(遠江) (6)搦め手門跡。

高天神城については、江戸時代に書かれた軍記ものとして「高天城軍記」というものがある。それによると、築城者は今川了俊だという。今川了俊が一時期、遠江半国の守護になったことはあるので、全く可能性がないとはいえないが、了俊の時代にはこのような山城はまだ築かれていないので、私は了俊築城説には否定的である。

高天神城(遠江) (9)橘ヶ谷の搦め手。引くも地獄、攻めるも地獄だった場所であろうか。

史料的にかっきりしているのは、戦国大名今川氏の初代になる今川氏親の時代、福島左衛門尉助春(くしまさえもんのじょうすけはる)という重臣がおり、たしかな古文書でこの福島助春の高天神城在城は確認出来るので、十六世紀初頭のの築城と考えられる。
今川氏親が駿河から遠江に版図を広げるとき、遠江侵攻の拠点として築かれ、その後も今川氏によって駿府今川館の有力支城の一つに位置付けられたものと思われる。

高天神城(遠江) (10)天正二年の七月に武田側によって作られたと云う三日月井戸。城中唯一の水の手で、枯れる事は無かったと云う。

その後、城主は福島氏から小笠原氏に代わっており、尾が粟原与八郎氏助が城主となっている。ところでこの小笠原氏助であるが、「高天神城軍記」をはじめとする各種軍記物はどういうわけか名乗りを長忠としている。長忠と名乗った時代があったかもしれないが、たしかな古文書では氏助なので、ここでは氏助としておく。

高天神城(遠江) (14)井戸郭(東峯と西峯の連結部分)からみた南方面の鹿ヶ谷。

小笠原氏助は今川義元の重臣としてこの高天神城をまかされていたが、周知のように、義元が永禄三年(1560)五月十五日の桶狭間の戦いで織田信長に討たれたあと、義元の子氏真はそれまでの今川領国を維持することができず、とうとう、永禄十一年(1568)十二月、東から武田信玄が、西から徳川家康が今川領に同時侵攻し、結局、氏真は駿府今川館を捨て、今川氏は滅亡する事態となっている。

このとき、高天神城主だった小笠原氏助は戦わず家康の軍門に降っているのである。つまり、小笠原氏助は今川氏を見限り、徳川氏に内応した形で、家康もその功を賞し、小笠原氏助にそのまま高天神城主としての地位を安堵したのである。つまり、ここで、高天神城は今川氏の城から徳川氏の城となった。

※引用はここまで。
続きが読みたい方は学研出版サイト「戦国の城」を参考に購入をお勧めします。


高天神城(遠江) (18)東峯の二の曲輪手前の的場郭。


えっ?その後のストーリーがメインで面白いところなのに止めるな?

やはりそこは、ご自身で購読して読みましょうよ・・・(笑)

以下はざっくりとらんまるの解説で。

【武田信玄・勝頼に攻められた高天神城】

武田と徳川には大井川を領土の境界線とする密約があったと云われるが、証拠も記録も無い。

信玄は大井川を越えて遠江に侵略の手を伸ばしたために、家康とは当然敵対関係となった。

高天神城(遠江) (22)主郭手前の段郭。

単独で武田と戦っても勝ち目の無い家康は同盟先の信長を頼りたいのだが、信長も自身が多忙で援軍を回す余裕も無い。

そんな状況を百も承知の信玄は、元亀二年(1571)三月に自ら二万の兵を率いて高天神城攻めを敢行する。
(第一回高天神城の戦い)

この時の籠城兵は二千といわれていたから、実に10倍の兵力差での城攻めだった。

高天神城(遠江) (30)二の曲輪跡。勝頼が攻めた時はここが本郭とも?

楽に落とせるはずが、簡単には落ちなかった。

数日攻めただけで、信玄は兵を引き躑躅ヶ崎館へ帰っていった。

この時の信玄の行動を徳川に対する「威嚇」とする説もあるが、そんな事のために二万の兵で囲むだろうか?

本当に落とせなかったと見るべきであろう。そして撤収の判断も誤りではなかった。

高天神城(遠江) (29)堀切も不要なので土塁も少ない。

翌年十月、西上の軍を起こした武田信玄は再び遠江へ侵入。二俣城を落とし浜松城に迫った。

この時に高天神城は素通りしている。二万五千でも簡単には落とせないなら放っておけばよいのだ。

その後、三方ヶ原へおびき出した徳川家康を散々に蹴散らし、翌年野田城を落とすが、病状が悪化し四月にあっけなく亡くなる。

高天神城(遠江) (34)本郭跡(御前曲輪はここだという説もある)

信玄の脅威が去りホッとしたのもつかの間、天正二年(1574)五月、信玄の跡を継いだ勝頼が再び二万五千の兵を率いて高天神城に殺到する。(第二回高天神城の戦い)

「父ちゃんの落とせなかった城を 俺が落として見せる!」

カリスマオヤジの威光を引き継ぎ家臣団の求心力を持続させるには、この方法が手っ取り早かったらしい。

高天神城(遠江) (36)本郭北側の腰郭。

城主の小笠原氏助から家康に対して後詰めの要請が入るが、やはり大軍相手の単独救援は無理で頼みの信長もやはり余裕がなく援軍も出せない。

一ヶ月に及ぶ武田軍の猛攻に籠城兵二千は良く持ちこたえた。堂の尾曲輪、本丸、二の丸を残すだけとなっても徹底抗戦で耐えた。

いつまでたっても落とせない焦燥感と、織田・徳川連合の後詰めがくるかもしれないという焦りから先に折れたのは武田側で、降伏勧告を行った。

これに対して小笠原側も待てど暮らせど来ない後詰めに疲れきっていて不満も噴出していたという。

高天神城(遠江) (40)本郭から見た東方面。

勝頼側からは代替所領を宛がう案が提示されるが、小笠原側は開城後の帰属先は各兵の選択を認めるよう提示があり、武田側もこれを受け入れた。

武田側として高天神城に残った人を「東退組(とうたいぐみ)」、城から出て徳川方に合流した人を「西退組(せいたいぐみ)」と呼んだらしい。

この時、徳川の軍監だった大河内政局(おおこうちまさもと)は降伏を拒否し、城内の石窟(石牢)に幽閉されたという。(7年後、徳川軍の高天神城攻めの際に救出された)

高天神城(遠江) (27)二の曲輪の東の崖淵にある石窟。崩落の危険があり現在は閉ざされている。黒田官兵衛と同じ忍耐力と忠誠心の持ち主だったんでしょう。


まあ、どんな形であれオヤジの落とせなかった高天神城を落とした事で、勝頼は自信を付ける結果となった。

「父、武田信玄を越えて見せる」

偉大な武将を父に持つ子としての宿命であろう。

老舗「武田や」の二代目の若旦那は、煙たい年寄りの番頭さんたちの忠告を無視して拡張路線を走りだす。

次回続編「高天神城を見殺しにした代償」を乞うご期待! (って続くんかい! 怒!)







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Posted on 2013/09/08 Sun. 11:55 [edit]

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