らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0909

高天神城② (静岡県掛川市上土方嶺向)  

◆後詰めも出来ずに見殺しにした城に払った高価な代償◆

戦国争乱の時代にあって、争奪戦の繰り広げられた城は意外な事にそれほど多くない。

大勢力による争奪戦といえば、長篠城、二俣城、そして高天神城に絞られ、いずれも境目の城であろうか。

話は変わるが、世間に出まわっている高天神城の縄張図と郭の呼称の多さ、勝手さには閉口する(笑)

確定しろとは言わないが、掛川市の教育委員会あるいは国指定なので文化庁関連の部署がある程度の指針とか表示を示すべきであろう。

高天神城(遠江) (39)標柱では御前曲輪、ここが本郭という縄張図もある。かつてエセ天守閣の建てられた跡の基礎だけが残るが、国指定の遺跡には不要だと思うが。

【長篠城奪還作戦で版図拡大を狙うも逆に織田徳川連合軍に大敗】

開城し降伏した徳川方の城将小笠原氏助は武田氏に臣従し代替え領地を宛がわれ、新しく城将として横田甚五郎尹松(よこたじんごろうただとし)を任命している。

岡部元信は籠城戦で傷んだ城の補修を進めて、更に城域の拡大を行ったという。

高天神城(遠江) (43)元天神社のある郭は武田時代の増設と云われるが信用できない。

高天神城の奪取に気を良くした武田の若旦那は、翌天正三年(1575)五月に一万五千の兵を率いて長篠城を包囲するが、城将奥平貞昌は五百の寡兵で持ちこたえ、後詰めに入った織田徳川連合軍三万八千と設楽ヶ原で決戦に及び大敗してしまう(長篠の戦い)

信長もさすがに長篠城は救援しないと同盟者である徳川家康にソッポを向かれる可能性があったので何とか間に合ったという訳であろう。

高天神城(遠江) (49)東峯の三の曲輪(与左衛門平)

老舗「武田や商店」の経験豊かな番頭はんは悉く討死してしまい、屋台骨が軋みはじめていた。

若旦那は高天神城に今川の旧臣だった岡部丹波守を城番として入城させ、横田は軍監として居残りを命じている。

高天神城(遠江) (50)三の郭周囲を囲む土塁。

天正六年(1578)十月、家康は家臣の大須賀康高に命じて高天神城の西約5kmに横須賀城を付け城として築かせ、高天神城の奪還作戦を開始する。

武田が弱体化したとはいえ、難攻不落の名城である高天神城は嘗て今川義元の家臣で豪勇の誉れ高き岡部元信が守っている。

二万の軍勢で囲んだ信玄でさえ落とせなかった城を、城攻めがヘタクソな家康が四万で攻めても落ちるはずがない(笑)

高天神城(遠江) (52)三の郭の切岸の下には塹壕状に刻まれた防御遺構が確認出来る。

そう、賢明な彼は嘗て織田信長が小谷城を攻めた時と同じ戦法を高天神城攻めに採用している。

付け城による通信遮断と兵站の遮断である。「エコなプチ兵糧攻め」というべきか・・(汗)

この時に徳川軍によって築かれた六ヶ所の砦を全て巡礼することが城ヲタク究極の証であるという。

※六砦に興味のある方は武蔵の五遁、あっちへこっちへをご参照下さい。

いわゆる「高天神六砦」である。(天正六年~天正八年の構築で小笠山砦は元々あった砦の改修だという)

高天神六砦配置図
「戦国の城」序章61頁の六高天神の砦を引用転載。

勝頼は高天神城への物資補給の拠点として東9kmに相良城を築城したり、六砦の間の山中に砦を築いたりしたが、困難を極め、とうとう補給はストップした。

小生も度々申し上げるが、後詰め無き籠城は犬死である。

高天神城の守備兵は武田勝頼の後詰めを「ヒタスラ待っていた」のである。

たとえ草の根を食べようと信玄の息子の「海道一の弓取り」は助けに来てくれるので我慢していたのである。

高天神城(遠江) (54)救世主は東から来るはずだった。

武田の若旦那には、もう気力も財力も兵隊も無かった。店子も逃げだす有り様では高天神城の救援どころでは無かった。

天正九年(1581)、城将岡部元信は徳川軍に降伏を申し入れるが拒否される。

「?????」

読者の皆さんは不思議に思うだろう。そりゃ当然で、降伏したら勘弁してあげるのが道理である。

これは信長の策略だという。なるほど、彼らしいやり方だ。

高天神城(遠江) (57)追手門(大手門)への尾根は数本の堀切で遮断している。

時代は戦国である。

殺すか殺されるか。明日の命の保証などない。敗北は死を意味している。

「一兵残らず最後まで戦って勝敗を決める」 負けが濃厚な籠城側に主導権など無い。それもまた道理である。

高天神城(遠江) (60)鹿ヶ谷と貯水池。現在この遊歩道は土砂崩落で通行禁止。自己責任で侵入して撮影(真似はしないでください)

高天神城(遠江) (63)生きる望みを断たれた絶望の境地でみた景色はどのように映ったのだろうか。

天正九年(1581)三月二十二日、城から打って出た武田軍は徳川軍により殲滅させられたという。

籠城兵の死者七百三十名の遺体は堀を埋め尽くしたと云い、ここに遺恨十年の高天神城の戦いは幕を閉じた。

高天神城を見殺しにしたという勝頼の悪評は信長によって全国に誇大宣伝され、武田の滅亡を早める結果に連鎖した。

高天神城(遠江) (68)西峯の井戸曲輪跡。

残念ながら、武田勝頼の評価は低い。

長篠の敗戦で叩かれた事ばかりが後世の歴史家の検証になってしまい、この高天神城を巡る攻防戦においてもオヤジという幻影と戦っているような印象を受け、勝手に自滅したぐらいの勢いである。

勝負は時の運という言葉を借りれば、「ついていなかった御曹司」という結果である。

高天神城(遠江) (75)西の峯の二の丸。

歴史に「たら・れば」ばあり得ないが、西上作戦で自分が死んでも軍事行動を止めないという事前協議をしておくべきだったと思う。

勝頼ほどの戦巧者であれば、信長の運命も先が読めない。

家康の息の根を止めておかなかったのは信玄の責任で、実行されれば日本史のターニングポイントだったはず。

高天神城(遠江) (80)堂の尾曲輪の堀切。

高天神城(遠江) (82)堂の尾曲輪の東の空堀跡。

ものの本では東峯が後期の改修とされているが、城跡を見る限りでは、西峯の通称「堂の尾曲輪」の尾根あたりが最終であろう。

高天神城(遠江) (97)西峯の先端まで続く横堀と土塁。

高天神城(遠江) (93)堂の尾峯の最終の先端の曲輪。こんなところまで来るやつはビョーキだ(笑)

さて、どうだったでしょうか?

僕はねえ、個人的に書かせてもらえば、勝頼は後詰めに来るつもりだったと思います。

オヤジを越える為の試金石だった城を簡単に捨てられる勇気など無かったと思います。

だが、出来なかった・・信長の思うつぼにハマった。

二代目の苦悩は底なし沼だったと思ってます。

高天神城2 (12)

「戦国の城」

まさしく高天神城は戦国の城であった。

その証拠に、落城後は一切見向きもされずに廃城となった。

時代が変わったというよりは、「忌まわしい城」だったのであろう。

高天神城2 (11)西の丸堀切跡。

≪高天神城≫ (たかてんじんじょう)

標高:132.0m 比高:104m
築城年代:不明
築城・居住者:今川氏、徳川氏、武田氏
場所:静岡県掛川市上土方嶺向
攻城日:2012年10月8日 
お勧め度:★★★★★ (難攻不落の山城を是非その目で見て欲しい) 
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:隅々まで全部見てね(笑)
注意事項:土砂崩落で通行止め区間がある。
参考文献:「戦国の城」(2007年学研新書 小和田哲男著)
付近の城址:沢山あります

高天神城2 (16)北側から撮影した高天神城でお別れです。












スポンサーサイト

Posted on 2013/09/09 Mon. 22:49 [edit]

CM: 6
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top