らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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黒川館 (北安曇郡小谷村千国)  

◆武田・上杉・小笠原に翻弄された千国一族の居館跡◆

イベント紹介という姑息な手段で攻城戦記の掲載を引き延ばしてみたが、これ以上は無理のようである・・(笑)

さりとて、三河・遠江遠征記も飽きられて来たようなので、ここらで地元を掲載しましょう。

今回ご紹介するのは塩の道「千国街道(ちくにかいどう)」で有名な信越国境小谷村(おたりむら)の黒川館。

黒川館(小谷村) (2)千国駅横のグランドから見た居館跡。河岸段丘上の要害の地であるが地震や浸食でかなり崩落しているのが分かる。

居館跡に立つ説明板にも「ここは中世の土豪千国氏(ちくにし)の居館跡である」としかない。

千国氏とは何者なのかを調べないと、小谷村ツアーは面白くないので郷土誌を参考に調べてみた。

黒川館(小谷村) (51)居館跡はこの先15m(南側より見る)。千国駅または南小谷駅から姫川を渡り一本道を進む途中にあり車で訪問可能。

【千国氏の出自】

千国氏は仁科一族の堀金氏(ほりがねし 現在の安曇野市堀金)の出自だという。

室町時代の安曇地方は、南を小笠原氏・北は仁科氏という二大勢力が領有し西牧氏と細萱氏はその間にあった。
当初は穂高川が境界線だったようだが、仁科氏の南進は続き古厩(小岩嶽・穂高有明)を制し、更に烏川を越え堀金の地に及ぶ。

仁科宗家は一族に古厩氏を名乗らせ、堀金氏も古厩氏の同族というのが定説である。

黒川館(小谷村) (6)つい見落としてしまいそうな居館入り口の標識。雰囲気を壊さない配慮が嬉しい。

堀金氏の初見は天文二十年(1551)で「高白斉記」の十月二十日の条に「(晴信)深志へ御着城、二十二日ホリカ子出仕」とある。

この三日後に反武田勢力の拠点だった平瀬城は武田軍の猛攻により落城、二十七日には小岩嶽城は放火されている。(小岩嶽城は翌年八月には晴信が自ら出陣し落城させられた)

既に仁科宗家は前年の天文十九年(1550)七月に武田晴信に出仕していたが、堀金氏は最後まで武田に降るか迷っていたようである。

黒川館(小谷村) (9)居館手前の堀切と北側の弓屋敷。

小岩嶽城の陥落により安曇郡は武田氏の支配下となったが、小谷の仁科氏の支族飯森十郎春盛は越後の長尾氏に通じて武田晴信への徹底抗戦を続けていた。

弘治三年(1557)七月、武田晴信は平倉城(小谷城)に籠る飯森十郎春盛を攻め滅ぼし、堀金氏もこの戦に出陣したようで、慶長十六年(1611)書留の千国文書によれば、
「此丹波(堀金氏三代目の兄)武田信玄(晴信)随申(身)、千国之平平倉責之節軍功ニ依て千国六ヵ村を被出置、則千国名字ニ信玄より被仰付、堀金職を捨、千国名字ニ成ル」とされている。

※小谷は来馬・石坂・千国・中谷・土谷・大網・深原の七ヵ村で、飯森氏の支配下にあったわけであるが、これに代わって堀金氏がこの支配を命じられたようである。しかし千国文書にみえる「千国五ヵ村の地頭」の五ヵ村がどこを指しているか明白でない。山口裕氏所蔵文書の「堀金氏之事」によると、千国丹波は千国黒川で病死していることからして千国枝郷の黒川城主であったようである。

以上「堀金村誌 上巻(自然歴史編)平成三年三月刊行」より引用。

黒川居館跡見取図①

平倉城の落城については、近日掲載予定の平倉城で書こうと思っているのでここでは割愛させていただく。

武田統治時代の安曇野地方は、当初仁科一族の間接支配という形をとってきたが、北信濃を巡る上杉との緊張が高まると信玄は後顧の憂いを断つ結論を出した。

信越国境の安曇野を固める為に仁科宗家を滅ぼし、自分の子の五郎に仁科宗家を継がせて仁科五郎盛信と名乗らせたのである。

黒川館(小谷村) (14)上巾15mの巨大な堀跡。

盛信はそれまでの安曇野地方における仁科支配体制を継続し優れた手腕を発揮し、信玄亡き後は兄の勝頼を補佐して信越国境を抑えた。

仁科盛信が仁科領国を統治していたのは10年間だが、千国氏も盛信の配下として小谷十人衆と共に小谷の地を治めたものと思われる。

黒川館(小谷村) (23)堀底を歩く「ていぴすさん」。巨大な堀であることがお分かりいただけるでしょうか?(土塁より撮影)

黒川館(小谷村) (17)堀に接続する高土塁。


【天正壬午の乱における小谷の争奪戦】

武田氏滅亡後の天正十年(1582)三月、織田信長は武田に反して織田軍に味方した木曾義昌に安曇・筑摩の両郡を与える。義昌は直ちに仁科一族や在地土豪の家臣化に着手した。

一方、上杉景勝は信越国境の根知城に西片次郎右衛門房家を入城させ、小谷から仁科方面への通路を閉鎖し兵士を送り込んだ。

六月二日の本能寺の変で信長が横死し信濃から織田方の武将が撤収すると、上杉軍は直ちに小谷から安曇野方面へ侵入し在地土豪より人質を取り制圧。

さらに小笠原貞慶の叔父である貞種を擁して木曾義昌の深志城を攻めてこれを駆逐し、七月五日には入城に成功する。

黒川館(小谷村) (27)一部耕作地になっているが、地元の住民には本丸と呼ばれる居館跡地。

これに対して小笠原貞慶は徳川家康の支援を得て旧領の旧家臣団を募り、七月十六日には貞種を追い出し深志城の奪取に成功した。

上杉氏は小谷・白馬方面を抑えていたが、貞慶が安曇野における仁科一族の大半を味方に引き入れ、八月には上杉方となった日岐城を攻め落とし犀川を北上。麻績・会田を席捲すると同時に大町以北も支配下として小谷で上杉軍と対峙する。

黒川館(小谷村) (31)土塁に立つ石碑と千国丹波守利秀の墓碑。天正十年7月5日落城とある。

天正十年十一月二日付けの「上杉景勝感状」(中土小谷温泉 山田寛氏蔵)によれば、上杉方では西片房家の配下にあった大所豊後守をはじめとする小谷衆が、この頃小笠原方の支配下にあった千国城を攻略し、付近一帯を焼き払っている。
※この千国城は「千国の城」とのみ書き記されているので黒川城を指すのか不明である。

これに対して小笠原貞慶も千国の地の確保に努め、翌天正十一年(1583)三月三日付けの「小笠原貞慶黒印状」(三郷村 千国靖夫氏蔵)によれば、貞慶はそれまで千国丹波守が握っていたと見られる千国の跡職(支配権)を善左衛門以下十人の「千国奉公衆」に宛行い、槍と鉄砲を十丁ずつ確保して小谷筋の警戒をするように命じている。

黒川館(小谷村) (33)居館跡から見る南の砦群。

ここで矛盾が生じている。

居館跡の墓碑によれば千国丹波守利秀は七月五日に上杉方の攻撃により死亡(落城)している。

しかし小笠原方の文書によれば、千国丹波守は上杉方なのである。

一族で敵味方に分かれた為に丹波守を名乗る人物は二人いた(?)のであろうか。

黒川館(小谷村) (37)北に突き出た先端部分が最終。その先の土塁で終わっている。

小谷地方における小笠原VS上杉の仁義なき戦いは千見城を巡る攻防戦同様に一進一退が続き、最終的に小笠原の支配権が確定するのは秀吉の裁定が下りる天正十四年(1586)である。

まさに「やられたら やり返す、倍返しダ!」を実践している(笑)

黒川館(小谷村) (41)度重なる地震や姫川の浸食で西側はかなり崩落が進んでいる。

黒川館(小谷村) (38)東斜面の胡桃沢は土塁と空堀で防御を強化している。

小谷村誌を基にツラツラと書いてきましたが、如何だったでしょうか?

えっ、よくわかんない? 小生も千国一族だらけでよくわかんない・・(汗)

境目の城も大変だけど、境目の住民も大変だってのが良く分かっただけでも「ヨシ!」としないとネ!(笑)

黒川館(小谷村) (47)千国街道を見下ろす絶好のロケーションには違いない。

≪黒川館≫ (くろかわやかた)

標高:580m 比高:50m(姫川より)
築城年代:不明
築城・居住者:千国氏
場所:北安曇郡小谷村黒川
攻城日:2013年9月29日 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:- 駐車場:適当に駐車
見どころ:土塁、堀切など
注意事項:崖注意。
参考文献:堀金村誌、小谷村誌
付近の城址:黒川城、千国城、立屋の城峯砦など
Special Thanks:ていぴす様







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Posted on 2013/10/05 Sat. 22:49 [edit]

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