らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0113
塩川城 (小諸市甲) 
◆自然地形を最大限に活用した巨大な崖淵城◆
昨日は我が家の次男坊が成人式らしいので、会場まで送って行った。
30年も前の自分の成人式は今でも覚えている。
小生を含めた就職組が少数派だった事も有り、ノーテンキな同窓生のお気楽極楽バカ大学生の自慢話には辟易した。
そんな奴らでもバブルが弾ける前だったので、とりあえずは就職出来た良き時代であった。
なので、バブル崩壊後の就職氷河期~アベノミクス前夜までの就職前線で辛辣を舐めてきた成人の皆さんには申し訳無く思っている・・(汗)

木曽義仲は依田城で挙兵すると今井四郎兼平の子に命じ荒神宮(上田市)で平家追討の戦勝を祈願させたという。
就職祈願も神頼みだったと思われるが、これからの日本経済の再生に期待したい・・
で、今回紹介するのは木曽義仲とは全く関係の無い小諸市の塩川城(しおがわじょう)

土石採集の為に消滅した硲城(はざまじょう)から見た塩川城。
【立地】
浅間山の裾野を流れる繰矢川(くりやがわ)が小諸に入り蛇行しながら深い渓谷を刻み、いよいよ千曲川と合流する崖淵に立地している。城域を分割している巨大な堀切㋐は繰矢川の支流または氾濫原として形成されたものだろうか。
繰矢川の渓谷を挟んだ南の対岸には北ノ城(きたのじょう)、隣接して硲城(現在は消滅)、更に森山城と続いている。

【城歴】
伝承等全く不明の城で越後堀や城の内という地名が残るのみである。小生のこの地域におけるバイブル「定本佐久の城」(1997年発行 郷土出版社)にも記載が見当たらない。
宮坂武男氏も南に突き出た台地上の1・2・3は逃げ込み城らしく、越後堀と称する5・6は成立時期が違うのではないか?と推測している。古いタイプの館城であまり手を加えた形跡は見られない。

城の内(郭1・2・3)へ通じる唯一の土橋。

土橋の東側はL字になる天然の堀切㋐

土橋を渡り郭4。

堀切㋑で切断し城内への侵入を阻止。
【城跡】
城の主要部は大堀切㋐より南で、通路は土橋のみとなる。四方は険しい断崖なのでまさに逃げ込み城であり、攻め込まれたら全滅しかない。
高城(郭1)と呼ばれる部分は恐らく千曲川方面の物見で、低い小山(郭2)は館主の小屋でもあったのだろうか。最大の面積を誇る郭3だが、遮蔽物も水の手も無いので籠城にも厳しい。

主要部はこんな感じ。

水と兵糧さえあればかなりの人数が籠城出来そうだ(南に広がる郭3)

郭2の崖淵からみた小諸大橋(千曲川ビューライン)。正面の崖の上が御牧ヶ原の台地。

城域西側は土石採集で削られたが、現在は中止されたようだ。それにしても結構な高所である(汗)

高城(郭1)。何の変哲も無いただの物見の小山だった。
越後堀と呼ばれる郭5と6は耕作地となり、堀切と郭の輪郭が僅かに確認できるのみである。

堀切㋒

堀切㋐と堀切㋒の連結部分。

越後堀と呼ばれる郭6.何の形跡も無い。

郭5.ここまで削平されると見事だ(笑)

大堀切㋐の西側入り口。繰矢川の氾濫原または嘗ての水路だったようだ。
小諸周辺は田切地形や崖淵を利用したデカイ館城が多い。しかも意味不明、デカ過ぎて守れねえし・・(笑)
農耕地を含めた集落ごと取り込んで築城されたような感じですね。
隣の「北ノ城」も調査してみましたが、訳わかんないし・・(汗)
地形的にも歴史背景からも耳取大井氏の北からの侵入に対する防衛拠点の一つだったように思えます。
幸いな事に、ここの領主だった耳取城の大井氏、森山城の守山氏はともに早い時期に信玄に降り、武田滅亡後は依田信蕃の配下として徳川氏に臣従したので、この地域が戦禍に遭う事は避けられたようです。

辛うじて破壊が中断された城域の西側(郭2と3周辺)
≪塩川城≫ (しおがわじょう)
標高:671m 比高:85m(千曲川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市甲
攻城日:2014年1月4日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:千曲川ビューラインの路側帯に駐車。(集落内は狭いので路駐不可)
見どころ:堀切など
注意事項:耕作地につき注意。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:耳取城、森山城、北ノ城、五霊城など

硲城から見た塩川城遠景(2013.8月撮影)
そういえば肝心の耳取城、森山城・・未だ掲載してませんでしたネ・・・・(汗)
昨日は我が家の次男坊が成人式らしいので、会場まで送って行った。
30年も前の自分の成人式は今でも覚えている。
小生を含めた就職組が少数派だった事も有り、ノーテンキな同窓生のお気楽極楽バカ大学生の自慢話には辟易した。
そんな奴らでもバブルが弾ける前だったので、とりあえずは就職出来た良き時代であった。
なので、バブル崩壊後の就職氷河期~アベノミクス前夜までの就職前線で辛辣を舐めてきた成人の皆さんには申し訳無く思っている・・(汗)

木曽義仲は依田城で挙兵すると今井四郎兼平の子に命じ荒神宮(上田市)で平家追討の戦勝を祈願させたという。
就職祈願も神頼みだったと思われるが、これからの日本経済の再生に期待したい・・
で、今回紹介するのは木曽義仲とは全く関係の無い小諸市の塩川城(しおがわじょう)

土石採集の為に消滅した硲城(はざまじょう)から見た塩川城。
【立地】
浅間山の裾野を流れる繰矢川(くりやがわ)が小諸に入り蛇行しながら深い渓谷を刻み、いよいよ千曲川と合流する崖淵に立地している。城域を分割している巨大な堀切㋐は繰矢川の支流または氾濫原として形成されたものだろうか。
繰矢川の渓谷を挟んだ南の対岸には北ノ城(きたのじょう)、隣接して硲城(現在は消滅)、更に森山城と続いている。

【城歴】
伝承等全く不明の城で越後堀や城の内という地名が残るのみである。小生のこの地域におけるバイブル「定本佐久の城」(1997年発行 郷土出版社)にも記載が見当たらない。
宮坂武男氏も南に突き出た台地上の1・2・3は逃げ込み城らしく、越後堀と称する5・6は成立時期が違うのではないか?と推測している。古いタイプの館城であまり手を加えた形跡は見られない。

城の内(郭1・2・3)へ通じる唯一の土橋。

土橋の東側はL字になる天然の堀切㋐

土橋を渡り郭4。

堀切㋑で切断し城内への侵入を阻止。
【城跡】
城の主要部は大堀切㋐より南で、通路は土橋のみとなる。四方は険しい断崖なのでまさに逃げ込み城であり、攻め込まれたら全滅しかない。
高城(郭1)と呼ばれる部分は恐らく千曲川方面の物見で、低い小山(郭2)は館主の小屋でもあったのだろうか。最大の面積を誇る郭3だが、遮蔽物も水の手も無いので籠城にも厳しい。

主要部はこんな感じ。

水と兵糧さえあればかなりの人数が籠城出来そうだ(南に広がる郭3)

郭2の崖淵からみた小諸大橋(千曲川ビューライン)。正面の崖の上が御牧ヶ原の台地。

城域西側は土石採集で削られたが、現在は中止されたようだ。それにしても結構な高所である(汗)

高城(郭1)。何の変哲も無いただの物見の小山だった。
越後堀と呼ばれる郭5と6は耕作地となり、堀切と郭の輪郭が僅かに確認できるのみである。

堀切㋒

堀切㋐と堀切㋒の連結部分。

越後堀と呼ばれる郭6.何の形跡も無い。

郭5.ここまで削平されると見事だ(笑)

大堀切㋐の西側入り口。繰矢川の氾濫原または嘗ての水路だったようだ。
小諸周辺は田切地形や崖淵を利用したデカイ館城が多い。しかも意味不明、デカ過ぎて守れねえし・・(笑)
農耕地を含めた集落ごと取り込んで築城されたような感じですね。
隣の「北ノ城」も調査してみましたが、訳わかんないし・・(汗)
地形的にも歴史背景からも耳取大井氏の北からの侵入に対する防衛拠点の一つだったように思えます。
幸いな事に、ここの領主だった耳取城の大井氏、森山城の守山氏はともに早い時期に信玄に降り、武田滅亡後は依田信蕃の配下として徳川氏に臣従したので、この地域が戦禍に遭う事は避けられたようです。

辛うじて破壊が中断された城域の西側(郭2と3周辺)
≪塩川城≫ (しおがわじょう)
標高:671m 比高:85m(千曲川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市甲
攻城日:2014年1月4日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:千曲川ビューラインの路側帯に駐車。(集落内は狭いので路駐不可)
見どころ:堀切など
注意事項:耕作地につき注意。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:耳取城、森山城、北ノ城、五霊城など

硲城から見た塩川城遠景(2013.8月撮影)
そういえば肝心の耳取城、森山城・・未だ掲載してませんでしたネ・・・・(汗)
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Posted on 2014/01/13 Mon. 10:51 [edit]
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