らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0330
大沢城 (下伊那郡阿南町富草) 
◆下条頼氏が伊那進出の拠点とした城◆
長野県の自治体にある「町名」で唯一「ちょう」と読むのが「阿南町」(あなんちょう)である。
東日本では「まち」、西日本では「ちょう」という読みが一般的らしいが、愛知県のお隣りなので西日本が食い込んだようだ(笑)
長野県民でもこの町の場所をキチンと思い浮かべられる人は少ないと思う。
飯田市の南側には峰竜太の出身地として有名な(?)下條村と泰阜村があり、そのさらに南側が愛知県との県境になる阿南町と天龍村である。この説明でも分かる人は少ない??(汗)

吉岡城から1.2km南側に大沢城があるが、間に尾根があるため直接は見えない。
今回ご案内するのは、戦国末期まで生き延びながら徳川家康に使い捨てにされ没落した甲斐源氏武田一門の下条氏の初期の拠点と伝わる大沢城。
【立地】
国道151号線の雲雀沢橋の東側に一際高く聳える山嶺で、旧国道に接続する町道が昭和四十年代に造られ、山麓を横切って下方の大沢川に通じた。
城域は城林川と井戸沢の間にある小山の山頂に、東に続いて下方の大沢川に突出した台地を利用しており、東方は山の神、稲葉に対し、天竜川を隔てて泰阜村を望み、西方は深い谷を隔てて庄田山に続き、南方は六万坊の深い谷があり、城坂を登ると台地は栗野区で、まさしく要害の地である。

現在城跡には古城八幡社(国指定重要文化財)が建っている。

石段の傾斜を見て分かる通り、斜面は切岸の跡であろう。(右奥には緩いスロープの登山道が増設されている)
【城主・城歴】
甲斐源氏(武田氏の末流)である下条氏は甲斐国下条に住し、同じ甲斐源氏である小笠原氏の被官として功があり、応永の初め(1395)、始祖下条頼氏が和知野川以北、阿知川までの地域を領有した。
本格的に居住したのが大沢、すなわち大爪と呼ばれた大沢城である。
この大沢城を中心として現在の下条・富草の地域を下条と呼び為すに至ったのである。

yahoo地図が使えず久々の国土地理院仕様となったが、出来は悪くない・・(笑)
大沢城時代の下条氏は五代続き、七十六年を経た文明二年(1470)に、松本小笠原より迎えた六代伊豆守康氏により下条村富山の吉岡城に移り、その後七代116年間を南信の雄として過ごしている。

鳥居の建つ場所も段郭だったと思われる。

主郭手前の帯郭。
移城後の大沢城は、康氏と共に松本より来た佐々木帯刀(ささきたてわき)が預かり古城(ふるじょう)といわれるようになった。
ちなみに古城区全戸が佐々木姓を名乗り、下条氏没落後は対岸の稲葉地区に邸を構えて帰農土着している。
同家には下条氏より拝領した茶釜や武具馬具類が残されている。

南北二段の主郭。社殿の造営で改変されたようだが、雰囲気は充分だ。

八幡社と諏訪社は厳重に施錠されていて見れません・・・(汗)
【城跡】
八幡社も諏訪社も下条頼氏が築城時に勧進しているので当初の社殿は麓の居館の敷地内にあったと考えられ、吉岡城へ
の移転時に現在の場所に造営されたようである。
主郭から四方向に支尾根が伸びていて、北尾根と西尾根に㋐と㋑の堀切と数段の削平された段郭が確認出来る。

社殿裏側を下りて崖淵手前の段郭

堀切にしては中途半端な加工の㋐。

北尾根先端の郭。この先は深い谷。
ロクにお参りもせず、大の大人が二人で神社裏の藪の中を徘徊している姿はハタから見れば滑稽だろうなあ・・(爆)
宝くじは当たらなくてもバチは当たりそうだ・・・(汗)

城跡からは国道151号線の雲雀沢橋が見える。我々が低いのではなく、高架橋が高すぎるのだ。
城跡西側の尾根先にある堀切㋑の捜索は矢竹の大藪に阻まれて難儀した。
無理やり突入した成果で、しっかりとした堀切と宮坂武男氏には認定されなかった帯郭、そして江戸時代の古道を発見。

これぞ薬研掘という堀切㋑。

安政年間に勧進された石碑(堀切の土塁先端にある)。脇に古道の跡が西へ続く。

宮坂武男氏には認定してもらえなかったらしい西尾根の帯郭。我々は認定したいと思うが(笑)
大沢城は「城館一体型」の中世城郭であり、古城八幡社の東側の広い傾斜地(現在は耕作地と民家)が居館跡と伝わる。
大手や大門という地名が残っているので、大沢城を中心に集落が形成されていたのであろう。

土地改良により改変されているが往時は居館があったのだろう。「ていぴす」さんが立っている場所に「下条様の井戸」がある。

家臣団の屋敷もあったのだろうか?

「下条様の井戸」のアップ。付近には他に2箇所の井戸跡が残るが、いずれも現在は枯れている。
春の長閑な日差しを浴び、時間が止まった桃源郷のような場所である。
室町時代も終盤となると、おおよそ戦国の動乱とは無関係だったこの地域も否が応でも巻き込まれていったのだった。
下条氏の履歴はいずれ吉岡城で仔細をお伝えしたい。
≪大沢城≫ (おおさわじょう 古城)
標高:564.9m 比高:140m
築城年代:不明
築城・居住者:下条氏、佐々木氏
場所:下伊那郡阿南町富草
攻城日:2014年3月23日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:神社脇に駐車スペース有り ※国道151号線雲雀沢橋の手前を右折して5分。
見どころ:郭、堀切、井戸跡など
注意事項:重要文化財につき火気厳禁。道が狭いので路駐禁止。
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「定本 伊那谷の城」(猪切智義氏の記述一部引用)
付近の城址:吉岡城、上田城、八幡城、矢草城など
Special Thanks to ていぴす殿

居館跡から見た大沢城。
長野県の自治体にある「町名」で唯一「ちょう」と読むのが「阿南町」(あなんちょう)である。
東日本では「まち」、西日本では「ちょう」という読みが一般的らしいが、愛知県のお隣りなので西日本が食い込んだようだ(笑)
長野県民でもこの町の場所をキチンと思い浮かべられる人は少ないと思う。
飯田市の南側には峰竜太の出身地として有名な(?)下條村と泰阜村があり、そのさらに南側が愛知県との県境になる阿南町と天龍村である。この説明でも分かる人は少ない??(汗)

吉岡城から1.2km南側に大沢城があるが、間に尾根があるため直接は見えない。
今回ご案内するのは、戦国末期まで生き延びながら徳川家康に使い捨てにされ没落した甲斐源氏武田一門の下条氏の初期の拠点と伝わる大沢城。
【立地】
国道151号線の雲雀沢橋の東側に一際高く聳える山嶺で、旧国道に接続する町道が昭和四十年代に造られ、山麓を横切って下方の大沢川に通じた。
城域は城林川と井戸沢の間にある小山の山頂に、東に続いて下方の大沢川に突出した台地を利用しており、東方は山の神、稲葉に対し、天竜川を隔てて泰阜村を望み、西方は深い谷を隔てて庄田山に続き、南方は六万坊の深い谷があり、城坂を登ると台地は栗野区で、まさしく要害の地である。

現在城跡には古城八幡社(国指定重要文化財)が建っている。

石段の傾斜を見て分かる通り、斜面は切岸の跡であろう。(右奥には緩いスロープの登山道が増設されている)
【城主・城歴】
甲斐源氏(武田氏の末流)である下条氏は甲斐国下条に住し、同じ甲斐源氏である小笠原氏の被官として功があり、応永の初め(1395)、始祖下条頼氏が和知野川以北、阿知川までの地域を領有した。
本格的に居住したのが大沢、すなわち大爪と呼ばれた大沢城である。
この大沢城を中心として現在の下条・富草の地域を下条と呼び為すに至ったのである。

yahoo地図が使えず久々の国土地理院仕様となったが、出来は悪くない・・(笑)
大沢城時代の下条氏は五代続き、七十六年を経た文明二年(1470)に、松本小笠原より迎えた六代伊豆守康氏により下条村富山の吉岡城に移り、その後七代116年間を南信の雄として過ごしている。

鳥居の建つ場所も段郭だったと思われる。

主郭手前の帯郭。
移城後の大沢城は、康氏と共に松本より来た佐々木帯刀(ささきたてわき)が預かり古城(ふるじょう)といわれるようになった。
ちなみに古城区全戸が佐々木姓を名乗り、下条氏没落後は対岸の稲葉地区に邸を構えて帰農土着している。
同家には下条氏より拝領した茶釜や武具馬具類が残されている。

南北二段の主郭。社殿の造営で改変されたようだが、雰囲気は充分だ。

八幡社と諏訪社は厳重に施錠されていて見れません・・・(汗)
【城跡】
八幡社も諏訪社も下条頼氏が築城時に勧進しているので当初の社殿は麓の居館の敷地内にあったと考えられ、吉岡城へ
の移転時に現在の場所に造営されたようである。
主郭から四方向に支尾根が伸びていて、北尾根と西尾根に㋐と㋑の堀切と数段の削平された段郭が確認出来る。

社殿裏側を下りて崖淵手前の段郭

堀切にしては中途半端な加工の㋐。

北尾根先端の郭。この先は深い谷。
ロクにお参りもせず、大の大人が二人で神社裏の藪の中を徘徊している姿はハタから見れば滑稽だろうなあ・・(爆)
宝くじは当たらなくてもバチは当たりそうだ・・・(汗)

城跡からは国道151号線の雲雀沢橋が見える。我々が低いのではなく、高架橋が高すぎるのだ。
城跡西側の尾根先にある堀切㋑の捜索は矢竹の大藪に阻まれて難儀した。
無理やり突入した成果で、しっかりとした堀切と宮坂武男氏には認定されなかった帯郭、そして江戸時代の古道を発見。

これぞ薬研掘という堀切㋑。

安政年間に勧進された石碑(堀切の土塁先端にある)。脇に古道の跡が西へ続く。

宮坂武男氏には認定してもらえなかったらしい西尾根の帯郭。我々は認定したいと思うが(笑)
大沢城は「城館一体型」の中世城郭であり、古城八幡社の東側の広い傾斜地(現在は耕作地と民家)が居館跡と伝わる。
大手や大門という地名が残っているので、大沢城を中心に集落が形成されていたのであろう。

土地改良により改変されているが往時は居館があったのだろう。「ていぴす」さんが立っている場所に「下条様の井戸」がある。

家臣団の屋敷もあったのだろうか?

「下条様の井戸」のアップ。付近には他に2箇所の井戸跡が残るが、いずれも現在は枯れている。
春の長閑な日差しを浴び、時間が止まった桃源郷のような場所である。
室町時代も終盤となると、おおよそ戦国の動乱とは無関係だったこの地域も否が応でも巻き込まれていったのだった。
下条氏の履歴はいずれ吉岡城で仔細をお伝えしたい。
≪大沢城≫ (おおさわじょう 古城)
標高:564.9m 比高:140m
築城年代:不明
築城・居住者:下条氏、佐々木氏
場所:下伊那郡阿南町富草
攻城日:2014年3月23日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:神社脇に駐車スペース有り ※国道151号線雲雀沢橋の手前を右折して5分。
見どころ:郭、堀切、井戸跡など
注意事項:重要文化財につき火気厳禁。道が狭いので路駐禁止。
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「定本 伊那谷の城」(猪切智義氏の記述一部引用)
付近の城址:吉岡城、上田城、八幡城、矢草城など
Special Thanks to ていぴす殿

居館跡から見た大沢城。
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Posted on 2014/03/30 Sun. 12:11 [edit]
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