らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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大島城 (下伊那郡松川町元大島古町)  

◆南信濃を代表する美しき武田様式の平山城◆

「日光見なけりゃ結構云うナ」では無いが、信州で武田の城を語るには「高遠城」(伊那市高遠)「牧ノ島城」(長野市信州新町)「岡城」(上田市岡)、そして今回ご案内する「大島城」の四天王を見なければ語れないのだという・・(汗)

まあ、そんなアホな捏造された都市田舎伝説はさて置いて(笑)、寝ても覚めても恋い焦がれた大島城を語りつくすゾ(笑)

大島城 (1)
誰が書いたか知らんが思わず「ヘタクソ!」と突っ込みたくなる駐車場に鎮座する看板(笑)


【立地】

松川町古町西側で国道153号線と合流する広域農道古町線を東へ下ると、天竜川西岸の断崖上に位置しているのが大島城である。東側三方は、蛇行する天竜川の断崖に面し、西側は古町の平坦地に接する所に城郭が構築されている。西側を堀や土塁で固めれば備えは固く、天嶮要害の地に設けられた平山城である。

大島城見取図①
オーソドックスな「後ろ堅固」と呼ばれる縄張りだが、随所に甲州流築城技術の最先端を駆使した一級の軍事要塞である。

【大島城跡の現状】

現在、大島城跡は町史跡の指定を受けているものの「台城公園(だいじょうこうえん)」として公園整備により城跡を壊すように遊歩道が付けられ、更にマレットゴルフ場のコースが作られている。

また、丸馬出しと二重三日月堀、内枡形の貴重な遺構は個人の所有地であるために改変が進んでいる。私有地に勝手に出入りする心無いマニアが後を絶たないせいか、所有者の怒りが頂点に達している事は、敷地内に張り巡らされた有刺鉄線が物語っている。

大島城2 (19)
奥の民家が丸馬出し(5)。内枡形への通路には薪小屋が建てられ枡形虎口の土塁の境界線にはフェンスや有刺鉄線が巡っている。

先祖代々受け継いだ土地が丸馬出しと三日月堀、内枡形という武田様式の城の一部だった・・・ここの住人にしてみれば、それだけの事であった。

無論、この場所が改変されずに引き継がれてきたというのは、土地所有者がその価値を知っていたからに他ならないと思うし、時には地域の人々や町からの依頼もあったのだろう。

大島城2 (18)
内枡形(郭3)の北側の土塁。

武田さんちの城だから県の指定史跡にしてくれ、というつもりは毛頭ない。四百年もの長い年月を耐えた学術的にも貴重な中世城郭を未来の子供たちに往時の状態で見せてあげて欲しいだけである。

丸馬出しを所有する住民の方には代替え地を用意して長年の苦労(421年間)に報いてあげて欲しい。

大島城 (84)
二重三日月堀が往時の姿で残っているのは信濃では大島城だけなのだ。


大島城 (82)
徳川の贋作と云われる小山城、諏訪原城の三日月堀には無い「品」があり、本家本元はさすがである(笑)

【城主・城歴】

片切氏の分流である大島氏がこの地に土着した頃は、古町の平坦部に居館ヶ7置かれ、段丘の先端部(現在の大島城の位置)に小規模な城を構えて、猿鼻城呼ばれている。
武田氏の伊那領有により、大島城を伊那経営の拠点とするために、元亀二年(1571)武田信玄は、当時飯田城に居た伊那郡代秋山信友を奉行にして、大島城を新築城に等しい大修築工事を行っている。

大島城2 (4)
郭3と丸馬出しとの間の堀は水が張られていたと思われる。(もちろん、二重三日月堀も水堀だったはず)

大島城2 (62)
城域北側の長大な塁線の西端には橋頭保(郭6)が置かれV字堀が周囲を囲む。丸馬出しの東からの侵入を見張る。

大島城 (5)
郭6.柵で囲んで有事の際にはスナイパー(狙撃手)5名も置けば機能する広さである。

この工事には伊那郡の多くの郷から強制的に人足が動員されている。
「小県郡工藤文書」の「武田信玄下知状」によると、飯沼・山本・毛賀・南山・今田・南原・市田・牛牧・吉田・河野・田村・林・小河・阿嶋・富田・虎岩・伊久間・松尾・下条・知久衆・今田衆の名が挙がっている。

大島城 (6)
郭6から南西方面。北側の防塁と郭2の間は上巾50mを超す深い堀と壁(へき)で守られ攻城兵は蟻地獄となろう。

大島城 (11)
郭3と郭4は土橋で連結されている。コの字で囲まれた郭4は郭2の馬出しであり郭3の逆馬出しでもある。

武田氏による城の修築は諏訪郡では上原城下諏訪城(桜城が通説らしい)・高島城(現在の高島城では無いので注意)の三城、伊那郡では大島城のほか、高遠城、飯島城、船山城の修築工事が行われているが、工事が大規模であったこと・記録文書が残されていることで有名である。この時から「台城」(だいじょう)と呼ばれるようになった。

大島城 (12)
郭3と郭4の間の水堀跡(向こう側が郭3)

大島城2 (10)
大島城の縄張りの独創性は、郭3から切り離された郭4の役割を理解しないと次に進めない(笑)

【城跡の概要】

現在の大島城跡は、修築当時の原形がよくのこされていて、武田氏の築城法を代表する堀と土塁を組み合わせた三日月堀が、西端に構築され、現在なおその一部が残されている。この三日月堀や空堀によって西側の平坦地を区画し、そこから東へ向かって四条の大きな空堀が掘られ、西側から天竜川に面する東側へ向かって三郭・二郭・主郭(一郭)が並び、三郭、二郭には周囲を巡る土塁が残されている。
三方の断崖面には腰曲輪・堀切・竪掘・竪土塁・折等が複雑に組み合わされた防御施設を各所で見ることが出来る。

城跡公園整備の植栽事業・駐車場設置によって三日月堀・堀・腰曲輪の原形が崩されているのは惜しまれるが、原形がよく残されている城跡のひとつである。

大島城2 (25)
三の郭とは土橋で連結している郭4。3の郭の司令塔であり伏兵を置いていたのであろうか。

大島城2 (16)
諏訪原城でも使用されていた壁立がこの土橋でも見れる。しかも良く調べると石積みなのだ。

城郭の西方に続く古町の邸探知には、古い時代の大島氏の居館や城下の集落があったと推定される。現在はその遺構は残されていないが、三日月堀の西側には堀、高越、早坂、川田屋敷、羽場、下町、辻畑、林泉畑の地名が残り、三郭の西側には天神平、町浦、町並、町等の地名があって、城下の集落の存在があった事がわかる。

※ここまでの解説は「定本 伊那谷の城 北の城・大島城」より引用

大島城2 (23)
郭3の南側。周囲を土塁で囲んでいる。

【らんまるの怪しい見立てと解説・・笑】

●城域南側

郭2は遊歩道で分断されたが、内枡形(虎口)は辛うじて破壊されずに残っている。引きずり込んで抹殺するという思想の下に造られた内枡形は武田軍の陰湿さを物語っている(笑)

大島城2 (28)
郭2の入口が枡形跡。

大島城2 (31)
内枡形は郭2側から見るとこんな妄想図になるようだ(汗)

大島城2 (33)
郭2の南半分は「ブランコ・お砂場・滑り台」という公園の定番遊具(笑)

大島城2 (34)
地元では難コースらしいマレットゴルフ場の郭2北側。

全ての郭が太く深い横堀で囲まれ壁(へき)と呼ぶのがふさわしい切岸で構成されている。(1の郭の背後は天竜川)
武田流の土の城の集大成とも云うべき芸術品であろう。

大島城 (17)
郭3の南側の堀底から東側を撮影。城域の南側にも長大な塁線で横堀を形成し郭2の側面を守るように橋頭保が置かれている。

大島城 (22)
堀底から一段上がった場所には守衛所のような小さな郭がある。郭1と郭2の往来はここを通るように設計されたようで周囲は竪掘を入れる厳重さだ。

大島城2 (41)
守衛所から見た西側。攻城兵が堀に侵入出来たとしても主郭へ辿り着く事は出来ないだろう。

「後ろ堅固」(または城正面とも)の縄張りとはかくあるべき。

攻め口は大島城の場合、西のみに限定される。南北は長大な高土塁の壁に守られた横堀で侵入はまず不可能だ。ましてや本郭の背後は「暴れ天竜」の凶暴な川の濁流と「大蛇ヶ淵」と呼ばれる浸食された崖で近づく事も出来ない。

正面突破するにしても、二重三日月堀の強固な馬出しを正面に見せつけられたら、間違いなく戦意喪失だ(笑)


●郭1(主郭)とその周辺

自然地形を利用した堀は上巾50m以上あり、郭1は独立した丘に聳える単郭の城郭に見える。

大島城 (29)
主郭から見た郭2方面。

大島城2 (61)
圧巻の堀切と壁。

大島城2 (44)
西側半分に低い土塁の残る郭1。

大島城2 (55)
北側隅に残る櫓台跡。

大島城2 (57)
車道で潰されているが、往時の虎口もここにあったと思われる。

本郭の東の「大蛇ヶ淵」が搦め手(ってか落城の際は天竜川に飛び込むかと・・汗)に当たり、この部分は放射状の土手(竪土塁)を普請して横移動を阻止する仕組みになっている。
この作りは周辺の河岸段丘の城にも多く見られるので、当時のトレンドだったと思われる。

大島城2 (49)
大蛇ヶ淵側の斜面には竪掘と竪土塁付きの腰郭が確認出来る。

大島城2 (53)
本郭の北側には井戸郭があり厳重な防御が施されている。(落書きご容赦!)

大島城 (43)
石組みされた井戸の内部。

大島城 (42)
井戸郭から見た郭1と郭2の間の堀(南方面)。谷底に隠れるように作られているので、攻城兵からは見えない位置。

城域の北側の防御構造も素晴らしい。深い森の中に迷い込んだような錯覚を受ける。
運よく正面から井戸郭に辿り着いたとしても、生きて帰ることの出来ない絶望感に支配されるのであろう。

大島城 (54)
郭2と井戸郭の間には土塁付きの腰郭が設置され井戸への侵入者を阻止している。

大島城 (56)
城域北側の防塁。谷底の井戸郭との落差がかなりあるので横堀というよりは竪掘りに近い。

大島城 (58)
反り立つ壁(切岸)と巨大な堀が織りなす土木工事の美しさ。同じ光景が仙当城(せっとじょう)にもあったのはビックリ!

大島城 (60)
堀は二股に分岐して一本は郭4と郭3を連結する土橋へ突き当り、もう一本は郭3の正面へ回り丸馬出しへ続く。


【大島城に残る云い伝え】

大島城を取り巻く天竜川の縁には大蛇がいて、常に切を吹きだすので、遠くからは城の所在がわからないから難攻不落の堅城であったが、ある城主が深い霧を嫌って大蛇を殺したのでキリが立たなくなったと伝えられている。そのため一名「大蛇ヶ城」ともいう。

織田軍が大島城を攻めるときに対岸の東台地から火矢を射掛けたために、たちまち城は焼けて落城したという。城主の娘が日頃愛する白鶏(金鶏)を抱いて井戸に身を投じたと云われ、元旦の朝に井戸の畔に立つと鶏の声が聞こえるとも云われている。下伊那郡史によると城主は戦わないで逃れたと書かれている。

大島城 (71)
美しき二重三日月堀。未来へ残すべき財産です。

織田の甲州征伐の時、大島城主は信玄の三番目の弟の武田信廉であったという。(信長公記によれば日向玄徳斉が守将とも)織田信忠の軍が飯田城まで攻め寄せると、彼は勝頼に相談する事なく難攻不落と云われた城を捨て、甲州へ逃げたという。勝頼が自刃して武田が滅亡すると、織田軍に捕まり処刑されたという。(信長さんは主家を裏切る奴、不忠な奴は大嫌いなのだ)


これだけのスケールと計算された防御機能を持つ大島城だったが、大将と守備兵がポンコツではどうしようもない(汗)

旧式の高遠城で奮戦し武田の意地を見せて散った仁科五郎信盛が、最新鋭のこの城で織田軍相手に籠城戦を行えば、半月はもっただろうか?勝頼も後詰め出来たのだろうか?
まあ、歴史に「if」はありませんが・・(笑)

大島城2 (47)
主郭から見た二つの支城

上野南本城が県指定史跡になるのであれば、大島城も早く指定してこれ以上の改変を止めるべきだと思うが。

久々の長文とダラダラ写真の数々・・最後までご拝謁を賜り、ありがとうございます・・(汗)

≪大島城≫ (おおしまじょう 台城・大蛇ヶ城・猿ヶ鼻城)

標高:490m 比高:50m
築城年代:不明
築城・居住者:大島氏、武田氏
場所:下伊那郡松川町元大島
攻城日:2013年2月10日(再訪:2014年2月1日) 
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:全部。(隅から隅まで見て欲しい)
注意事項:マレットゴルフでプレーしている人の邪魔にならないように(笑)
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「定本 伊那谷の城」
付近の城址:北の城、沼ノ城、名子城、福与城など
Special Thanks to ていぴす殿

大島城2 (65)
対岸からの遠景。伊那谷の拠点として申し分無いproduced by Takedaの名城である。





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Posted on 2014/03/02 Sun. 13:21 [edit]

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