らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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矢草城 (下伊那郡阿南町大下条西条)  

◆下条氏の領土を「黒く塗りつぶせ!」◆

北条早雲(伊勢新九郎長氏とも?)が同族として一目を置くほどの新興勢力の実力がいよいよ開花する時が来た。

新野の領主関家の四代目の安芸守春仲(あきのかみはるなか)は三代目の父である春清が早世したために、叔父右馬允(うまのすけ)に厳しい戦乱を生き抜く為の心構えを教え込まれ、そしてその才能は自らの決意によって開かれた。

春仲の脳裏に浮かんだのは「下条領を黒く塗りつぶせ」このことであった。

矢草城(阿南町) (67)
矢草城の入口の熊谷家にある井戸。往時も城の水の手として使われたといい、今も枯れる事無く水を湛えている。

「俺のハートは Get No Satisfied !」彼が永ちゃんの如くそう叫んだかは不明だが(笑)、下条氏の領内である早稲田に密かに八幡城を築き大永五年(1525)、関安芸守春仲の軍勢は見名峠を越え下条領の和知野を制圧し更に北の大下条の早稲田へ向かった。

「新野の関安芸守春仲の軍勢、早稲田へ向けて侵攻中!!」

八幡城の北東1,000mに位置する大下条の砦山城から吉岡城の下条時氏のもとへ早馬の伝令が走った。

矢草城(阿南町) (63)
矢草城の南東の沢は小屋掛けに適した土地であり、城館が置かれていたと思われる。(堀切㋐の終点付近より撮影)

信濃守護だった小笠原家が内部抗争で府中・松尾・鈴岡と三家に分裂すると分流の下条氏は鈴岡に与するが、松尾小笠原家が鈴岡小笠原家を滅ぼすと、直接敵対する関係に陥り戦線は膠着状態となり泥沼化していた。

この仁義なき戦いのドサクサを利用して関氏は下条領に侵攻したのであった。

矢草城見取図①
重宝していた旧バージョンの国土地理院1/25000の地図が使えなくなったので、無理やり縄張図を引いてみた(汗)

それでも下条家の当主である時氏は集められるだけの軍勢を割いて早稲田に急行させるも、関氏との合戦に敗れてしまい、大下条からの撤収を余儀なくされ支配権を失った。

矢草城(阿南町) (10)
南西から見た主郭1。

急ごしらえの八幡城では早稲田を含む大下条の統治拠点としては不便だと考えた春仲は、八幡城の北500mの一段低い山に新たに縄張りを行い、新しい領主としての築いた城が矢草城である。

矢草城(阿南町) (6)
城域最大の堀切㋐(上巾15m)


【立地】

阿南町の大下条田上上に氏の境に連なる標高980mの弁当山の支脈が東方に伸びた一丘陵にある。西方を家古沢川(やこさわがわ)が流れ、下方で千木沢となり天竜川に注いでいる。

矢草城(阿南町) (8)
堀切㋐を南側より撮影。関氏の築城した城の中では一番マトモで落差のある堀切である。

矢草城(阿南町) (14)
郭1の北側の土塁。全周していたとは思われず、北だけに限定されていたようだ。

矢草城(阿南町) (17)
主郭は蝶が羽を広げたように段差を付けて二分割されている。我々はこの後で移転した上田城でも全く同じ縄張を見る事になる。


【城主・城歴】

世の中の中世城郭において文献その他で築城年代がハッキリ分かる城は僅か数パーセントだという。
奇跡的な事に、矢草城はその数%に属する築城年代の記録の残る貴重な城で、大永5年(1545)の築城だという記録が残る。

その年の八月に急造した矢草城がひとます完成し、春仲は八幡城から移ったという。相変わらず下条領と隣接する北限の境目の城に領主自らが居城を構えるという異例の事態であるが、彼の「黒く塗りつぶす」という決意の表れであろうか。

矢草城(阿南町) (13)
北西の尾根に突き出る郭4。削平が丁寧だ。

矢草城(阿南町) (21)
関一族の石積み堀切の集大成と思われる堀切㋑。馬出しの郭3に対する防御であろう。

【城跡】

城は純然たる山城で、山頂にひょうたん形の平地があり、これを本郭としてその下方に数段の小郭がある。空堀の跡も、東西二箇所に認められる。城跡には矢竹の材料となる篶竹が多く生えているところから、城の名はこの矢草より付けられてと云われている。

大手筋にあたる郭2への登城路は城坂と呼ばれ城門があった可能性がある。

矢草城(阿南町) (28)
郭3は矢草城の馬出しがあり、石積みを備えた完成度の高い縄張を見る頃が出来る。

矢草城(阿南町) (31)
しっかりした造りの郭3(馬出し)

矢草城(阿南町) (36)
丁寧に削平された郭2(33×18)

関安芸守春仲は、この矢草城を居城と定めて10年間をここで過ごし新天地の治世にあたったという。

下条氏も奪還の機会を狙うも松尾小笠原家との確執に翻弄され、その機会をいたずらに損失ばかりしていたのである。

矢草城(阿南町) (51)
地元では郭5の部分を「山の神」と呼ぶらしいが、祠やそれらしき形跡は見当たら無かった。

大永五年(1524)~天文三年(1534)までの十年間を居住した春仲であったが、南東1km先の尾根先に新たに上田城の築城を命じ、十三ヵ村の領民に重い賦役を課し突貫工事で完成させると直ちに居城を移した。

空き城となった八幡城と矢草城は身内の金田盛形が守ったという。(金田氏については前回記事の八幡城を参照願います)

矢草城(阿南町) (54)
城域の北側の峰続きには大日堂が勧進され大日如来が祀られていたというが、現在跡地には石仏が安置されている。


矢草城(阿南町) (57)
大日堂跡に佇む石仏。賽銭箱の代わりに貯金箱が置かれていたが、誰か参拝するのだろうか?


【領民を奴隷の如く扱う成り上り者「関一族」への憎悪】

大下条に暮らす人々にとっては新野から攻めてきた関氏が新しい領主になったものの、年貢に加えて度重なる矢草城の改築と上田城の新築という終わる事無き毎年続く労働賦役に対する不満は限界に達していた。

「もうわしらは我慢できねえズラ!(怒)」


次回「領民の怨嗟に屈し、三年間で終わった上田城での眠れない夜」を待て!(爆)

矢草城(阿南町) (60)
南の沢へ落ちる堀切㋐。

≪矢草城≫ (やぐさじょう 家古沢城(やこさわじょう)井戸城)

標高:679m 比高:105m(旧道より)
築城年代:大永五年(1525)
築城・居住者:関氏
場所:下伊那郡阿南町大下条西条
攻城日:2014年3月23日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:15分 駐車場:無し(ふもとの道路脇に路駐)
見どころ:堀切、土塁、石積みの堀切と馬出し、郭など
注意事項:熊谷家は現在無人だが住宅内敷地及び耕作地は無断侵入厳禁。マナーは守りましょう。
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」
「定本 伊那の城」※この本には入山困難と表記されているが、夏場以外なら充分城跡が確認出来る状態である。
付近の城址:八幡城、上田城、砦山城など
Special Thanks to ていぴす殿

矢草城(阿南町) (65)
麓の熊谷家付近から見た矢草城遠景。













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Posted on 2014/04/08 Tue. 06:00 [edit]

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