らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0410

上田城 (下伊那郡阿南町大下条西条)  

◆無駄な城の築城に領民を酷使して怨みと反感を買い、僅か三年間で廃城にされた上田城◆

そもそも何で南信州辺境の地国境の阿南町、しかも超マイナーってか3Aレベルの土豪である下条氏と関氏の領土争いの地を訪ねる気になったの?と思われる方も多いかもしれない。

信州の城と古戦場 表紙①

この本は、宮坂武男氏の「図解山城探訪」と並ぶ小生のバイブルであり、小生がブログを開設するキッカケを与えて頂いた中世城郭研究のパイオニア的な存在のHPで城と古戦場~戦国大名の軌跡を追う~の管理人マサハレ氏の愛読書でもあるという。

この本の中に「城を多く築いて恨まれた城主」という史実が紹介されていたのと、「犬坊狂乱」という井上靖先生の短編時代小説のネタ元という話も聞いて、どーしてもその舞台に行って現物を見たかった・・・それだけである(笑)

真田軍記表紙①
「犬坊狂乱」は「真田軍記」という色々な戦国時代の短編小説を集めた井上靖氏の文庫本に収録されている傑作。その他の物語も面白いのでお勧めだ。「海野能登守自刃」という物語は真田ファン必読であろう。

さて、今回ご案内するのは、「驕れる関一族は久しからず」の序章となった阿南町にある上田城。

関春仲が領民を酷使して築城したというのだが、現地を訪れて開口一番、「ホント、がっかりだよ!」(笑)

上田城(阿南町) (1)
城の搦め手の鳥居。あなん少年自然の家の北東にある知方神社境内が城跡。すぐ近くまで車で行けるのでありがたい。


【立地】

阿南町大下条小野の西方に連なる山陵の突端部に築かれた城である。北方は深い谷になっており、千木沢が流れ、対岸に深見部落があり、砦山・田上の台地に接し、深見池をその下に湛えている。南方は崖下に作洞洞があって、平久の山々に対し、東方の断崖下には小野部落越しに天竜川を望む。三面に急斜面を有する要害の地である。

上田城見取図(下伊那郡阿南町)
図面を引くまでもなく、酷く退屈な縄張り。

【城主・城歴】

この城は天文五年(1536)八月、春仲が矢草城より移り、以後三年間居城とした城である。
築城にあたり、下方の千木沢より石材(砂岩)を運び上げるなどして領民を酷使したため、その恨みから領民が関氏から離れる端緒になったとの前章があり、在城わずか三年で、関氏は城を捨てる事になったのだという。(現地の説明板)

上田城(阿南町) (2)
城域搦め手側の堀切㋐。堀底に鳥居が建つ。

上田城(阿南町) (3)
主郭の南尾根の腰郭。削平も中途半端で終わっている。

矢草城を居城として約十年間過ごした春仲が、南東約800mの尾根先に上田城を築城したのには以下の理由があったと思われる。(あくまでも小生の想像であるが)

①矢草城では北の下条氏の侵入には対応出来ても、東方の天竜川を境として対立する南信濃和田の遠山氏の抑えには不安

②見名峠への街道筋を矢草城、上田城にて抑える。(新野への撤退路の確保)

③天竜川の対岸の泰阜村(やすおかむら)方面への出撃拠点としての築城

上田城(阿南町) (5)
堀切㋐と主郭の接続部分に残る土塁跡。

上田城(阿南町) (6)
土塁から堀切㋐を見下ろす。角度も深さも甘いと云わざるを得ない。

上田城の築城で領民に賦役が課されただけであれば、それほどの恨みを買いはしなかったであろう。

ところが上田城に居城を移した二年後の天文七年、和知野川の河岸に突き出した和知野集落の対岸にある尾根に、嫡子盛永(もりなが)の城の築城を命じ、再び領民に労務賦役を課したのである。

上田城(阿南町) (8)
半円形の南半分の「1‘」。ゲートボール場にされた城跡の比率を調査してみたい気分になる(笑)

上田城(阿南町) (14)
主郭を段差で区分する手法は矢草城と共通している。上座下座の分けで防御の意図は無いと思う。

和知野川への新城(権現城)の築城は恐らく盛永の暴走であると思われ、当主春仲も家臣も止められなかったのであろう。北の下条領への侵攻がダメなら、東の天竜川流域に侵略の活路を見出そうとするなら、権現城の築城場所は絶好の位置である。

上田城(阿南町) (17)
主郭の北半分(郭1)無理やりコースを作っている・・・(汗)

上田城(阿南町) (18)
ゲートボール場になる前に発掘調査して欲しかったなあー。

上田城(阿南町) (12)
知方神社&関八幡宮。関氏の滅亡後に祟りを恐れた領民は八幡社を勧進したという。(権現城にもある)

二年も経たないうちに再び築城工事に駆り出された領民は、関一族に対して深い恨みを抱くようになった。

関家四代目当主の春仲は嫡子盛永に家督を奪われ、上田城に居住するも周辺の領民とは一触即発の状態だったらしい。

僅かな供回りの家臣しかいない脆弱な縄張りの上田城では、反感を持つ集団に襲われたらひとたまりもない。

天文八年(1539)、春仲は上田城を捨て、盛永の権現城へ移った。以後上田城が使われる事は無かったという。

上田城(阿南町) (19)
主郭東側の二重堀切。やる気の無い堀切だ・・(汗)

上田城(阿南町) (20)
堀切㋑。イイ意味では箱堀(?)。

上田城(阿南町) (24)
堀切㋒。堀に伐木を投げ入れるのは止めましょう(笑)

【城跡】

矢草城より単純で、主郭の他には南側に数段の帯郭が作られ、西側の搦め手には二条の堀切(一つは消滅)、東側には二重堀切が作られ、南北81m・東西81mのほぼ半円形の城跡である。
本郭の中央には、かつて祟りを恐れて創建された関八幡社があったが、第二次大戦後に下方にあった小野村の知方神社を合祀した。

上田城(阿南町) (30)
北斜面に竪掘りとして落ちる堀切㋐

縄張りは矢草城よりも単純で、実戦を想定して築城されたとはとても思えない酷さである。
神社の正面の鳥居の南側の切岸付近に石積みらしき跡があるが、往時の痕跡とは判断出来ない。

上田城(阿南町) (31)
集落から比高140mの高さにあるので、石の運搬は大変な重労働であったろう。

いくら南信濃の辺境の地とはいえ、童の戦遊びじゃあるまいし、こんな古めかしい縄張りで築城を敢行し領民を酷使したとは情けない話である。

倅の暴君として悪名高き盛永が築城した権現城も、縄張図を見る限りでは上田城より幾分はマシだが落城しても仕方のない仕様だった。(残念ながら今回は途中の道路の土砂崩れで辿りつけなかった)

上田城(阿南町) (16)
主郭北側の切岸。

八幡城2(長野市)

今回、残念ながら関氏最後の城だった権現城は見る事が出来なかった。

ここで権現城における関盛永の最後を記載するのは小生の主旨とは違うので、いつの日にかキチンと権現城を踏査してから記載したいと思う。未熟者ゆえにご迷惑をお掛けしますが、学会には発表しないので、どうかご容赦願います(笑)


≪上田城≫ (うえだじょう 城山)

標高:617m 比高:140m
築城年代:天文五年(1536)
築城・居住者:関氏
場所:下伊那郡阿南町大下条西条
攻城日:2014年3月23日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:あなん少年自然の家駐車場
見どころ:堀切、土塁
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「定本 伊那の城」
付近の城址:八幡城、矢草城、砦山城、権現城など
Special Thanks to ていぴす殿

上田城(阿南町) (33)
矢草城登り口の井戸集落から見た上田城。







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Posted on 2014/04/10 Thu. 22:31 [edit]

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