らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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旭山城 (長野市平柴)  

◆謙信も信玄も落とせなかった北信濃最強を誇る難攻不落の山城◆

山城の魅力を感じるには現地踏査だけでは無く、縄張図を実際に引いてみる事で倍増する。

最初は、既に誰かによって描かれた縄張図を参照したコピーでも良いので描いてみるのが大事だ。これだけでもその城の設計者の意図を充分に感じ取る事が出来るようになってくる。

気を付けて欲しいのは、それにハマったらもう二度とこの趣味から戻れなくなる事ぐらいであろうか・・・(汗)

旭山城見取図①

上記は今回ご紹介する旭山城の最終の縄張図であるが、現地を見ずともこの図面だけを読んで「皆のもの、撤収じゃ!」と判断出来るとしたら、太雪雪斎(古いなあ)や山本勘助、そして竹中半兵衛、黒田官兵衛も越えられる・・(笑)

旭山城跡 037
長野市の信州大学付近から見た旭山城。あんな場所に登るんかい・・(汗)


【立地】

旭山(標高785m)は、長野市街地西側の長野県庁裏にそびえる三角形をした山である。
旭山の東側には裾花川(すそばながわ)が流れて断崖となり、南側は犀川(さいがわ)が自然の堀となっている。
まさに要害堅固の立地である。

旭山城201404 (171)
城跡への遊歩道を5分ほど登ると郭7の削平地に到達。かつての大手道は東の沢の朝日山観世音からのルートだという。

旭山城201404 (7)
郭7から尾根の急坂を登ると堀切㋐の堀底へ。東尾根への横移動を制限している。

【旭山城と川中島の戦い~謙信でも落とせなかった堅城】

旭山は善光寺と門前に近く、善光寺平を一望できることから、善光寺平一帯の支配権を制する重要拠点であった。
旭山には、山頂に旭山城(旭城)、中腹の大黒山(だいこくやま)に大山城、小柴見集落がある台地の突端に小柴見城の、三つの山城がある。

旭山城201404 (10)
郭6は橋頭保となり、尾根伝いに登る攻城兵を「折れ」に誘い飛び道具で瞬殺する位置にある(汗)

旭山城201404 (12)
郭6の背後の堀切㋑には土橋が残る。郭5から横矢を掛けられる位置なので生存率はここで低下しただろう。

旭山城201404 (14)
南の沢に竪掘りとして落ちる堀切㋑。

南北朝時代(14世紀後半)には旭山の麓の平柴に守護所が置かれ、旭山城と大黒山城は詰め城として機能していたと云われる。

旭山城201404 (17)
郭5は堀切㋔に迫ろうとする敵兵に「横矢掛け」(よこやがけ)で対抗する重要な郭だ。

弘治元年(天文24年とも、1555)、長尾景虎(上杉謙信)は高梨政頼・村上義清らの救援要請により善光寺平に兵を進め、旭山城の北西の葛山城(長野市芋井)に入った。

これに対して武田晴信(信玄)は、大塚(長野市大塚)に着陣すると、善光寺の堂主で武田方となった」栗田鶴寿が籠る旭山城に兵3,000、鉄砲300挺を贈った(いわゆる第二回川中島の戦い)。これが史料にみえる旭山城の初見である。

旭山城201404 (19)
旭山城の大事な防御を担う郭5。ここを突破する為には相当な犠牲を強いられたと思われる。

歴代の戦国武将の中でも、上杉謙信は短期決戦を指揮させたらその戦術も勝率も間違いなく「神」の称号にふさわしく、まさしく「軍神」であろう。

が、その謙信さんですら、旭山城を攻めあぐね、いたずらに200日間を北信濃で過ごす羽目に陥っていたのである。

また、武田晴信(信玄)が派遣した応援部隊3,000人というのも無理があり、現実的にはその1/10だったと推測される。まして当時は高価で貴重品であった鉄砲三百挺というのは、かなり誇張に宣伝されたとみるべきだと思う。

んで、信玄さんも旭山城の後詰めから逃げ出す事もままならず、謙信さんに付き合ってに200日間を過ごした・・(笑)

旭山城201404 (25)
郭5の外周は石積み仕様だったらしい。もっとも旭山城の主要部分は全て石積みで覆われていた。

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主郭の西尾根を遮断する堀切㋒(上巾12m)。その長大な竪堀の広さと長さに感動する。

「チャチャッと行ってパパッと落としてこんかい!!(怒)」

短気短期決戦が得意な謙信さんがいくら怒鳴ったところで戦況は変わるはずも無かった・・・。

旭山城201404 (40)
この竪掘りだけでも物凄い土木工事量だ。しかもこんな山の中で。田舎のヤクザ如きでは何年かかろうと出来ない。

旭山城201404 (41)
切岸という呼び方では無く、やはり壁(へき)と呼ぶべき斜面の加工と横矢掛け用の郭の絶妙な配置。

旭山城201404 (44)
痺れるような堀切㋒の堀底には城割により崩された石積みが散乱している。

さすがに善光寺平で上杉軍VS武田軍が200日間(一説には100日間とも)も睨みあっていると、兵士の士気も緩み統制も取れなくなる。そればかりか、謙信も信玄もお互いの本国から遠く出張っているので、内乱でも起きたらどうしようか?と気が気で無い。

旭山城201404 (45)
恐らくこの現場を終日彷徨っていても飽きが来ない山城ヲタク垂涎の名城であろう(笑)

この状況をみかねて、信玄とは旧知の仲だった駿河国の今川家の家臣の一宮出羽守が10月に現地へ赴き、主君義元を仲介役として和議を整えるよう双方を説得し、謙信も信玄も同意した。

和議の条件として謙信公は、戦いの象徴であった憎い旭山城の破却(城割・破城)を主張したという。

厳しい冬の季節が来る前にとりあえず甲府に帰りたかった信玄は結局この条件を承諾し、旭山城は破却された。

また、北信濃の土豪の旧領回復も講和条件に加えられ、信玄は占領地からの撤収を余儀なくされ逆に謙信の勢力が拡大する結果となった。

旭山城201404 (48)
破却を逃れて辛うじて残っている石積み。


旭山城201404 (52)
郭4から見下ろす。竪掘経由で攻め登る事は「全滅」を意味している。

現在堀の中に散乱する無数の石積みの残骸が、この時の城割のものなのか断定出来ない。
主郭虎口の石積みの破壊部分と併せて検証してみる必要がありそうだ。

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「倉ヤシキ」と伝わる郭4の石積み。

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北尾根に対する防御の拠点だったと思われる郭4.


【怒れる謙信、破城された旭山城を再興する】

第二回甲越合戦において和議が結ばれた三年後の弘治三年(1557)の正月、冬の積雪で身動きの取れない越軍の隙をついた甲軍の武田軍は調略により葛山城の城将落合備中守の一族の内通を取り付け、備中守治吉の孤立化に成功する。

二月に深志より出陣した馬場美濃守が率いる武田攻城軍は葛山城の水の手を断ち切り、火攻めで城を落とし、城将の落合備中守と援軍の小田切駿河守を討ち取る。
※葛山城の攻防戦は近々に詳細を現場レポートと共にお伝えしたい。

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コンパクトながら実戦に備えた無駄の無い主郭背後の配置。

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北東の沢へ竪掘りとなって落ちる堀切㋒。

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北尾根を遮断する堀切㋓。対峙する葛山城側だが裾花川の深い渓谷を渡り攻めてくる可能性は極めて低い。


毎年のことながら大雪で身動きの取れない謙信さんは、葛山城落城の知らせに驚愕し和議を破った信玄に対し「謀りおったか武田晴信!(信玄)、しからば必ずその首と胴体を切り離す!」と毘沙門天に誓いを立てたと云う。

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堀切㋓の先の尾根は、搦め手(落城時の脱出路)なので、申し訳程度の削平で終わっている。

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堀切㋒から見上げた主郭の裏虎口。(写真の誤字はご容赦下さい・・・汗)

雪解けを待ちわびた謙信は、四月に北信濃へ進軍し善光寺付近に本陣を置く。前回は武田方となった善光寺の栗田氏は武田方に不満を持ち今回は上杉に味方する。

再び北信濃に侵攻中の武田軍を駆逐し葛山城を攻め落とし、上野原で両軍は合戦に及ぶと記録にあるが、その場所が具体的に何処なのか不明であり、局地的な戦闘の一部だったらしく信玄は直接対決を回避したようである。(第三次川中島合戦)

この時に旭山城は謙信により再興され、武田に対する最前線として守備兵が置かれたという。

「ワシが落とせなかった城だ。さあ晴信さんよー自分が設計した城を攻めて落としてみよ!」

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周囲を土手(土塁)に囲まれた主郭(38×36)

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和議の時に破城の証として破壊されたと思われる本郭の虎口(こぐち)

葛山城には上杉方の山城の特徴である畝状竪堀(うねじょうたてほり)が見られるが、旭山城には無い。

でもね旭山城の縄張りは、この時期に上杉が武田に備えて改修したと思われる大峰城枡形城と共通している防御構造なわけよ。

ドシロウトの小生が物申すには確証となるデータが絶対的に不足しているが、上杉系とか、武田系、北条系と巷(ちまた)で定説となりつつある「大名系城郭の縄張り」をこの城に当てはめるには、チョッと無理があるように思える。

少なくとも、郭+長大な堀切+横矢掛け+土塁を基本としたシンプルでコンパクトな縄張りは、コンセプトが共通しているので同一集団の軍事専門家の仕事の成果であり、しかも短期間で造成された感じがする。(お隣の葛山城は時間をかけて防御を拡張していき畝状竪掘りを多用しているので、どちらかといえば上杉系のイメージが強い)

旭山城201404 (103)
虎口の石積み。恐らく主郭は石積みが全周していたと思われる。

旭山城201404 (104)
下段の郭から主郭への通路は石畳+石壁で恐ろしく頑丈に出来ていたと思われる(壊しちゃったのネ・・汗)


怒り狂った謙信さんには為す術も無く、武田晴信(信玄)は北信濃から一度撤収せざるを得ない事態となった。

旭山城と葛山城を抑えられては飯山方面の戦線も維持出来ず、松代の尼厳城(あまかざりじょう)へ後退。

「フン、そんな城くれてやるゾ景虎(謙信)!」(ホントは取られて悔しい・・・)

仕方が無いので、信玄は海津城(現在の松代城)を新たに築城し軍事拠点とした(1558年~1560年の築城らしい)

旭山城見取図①
戻って見るのも面倒なので、再び縄張図に登場していただこう。

旭山城201404 (110)
郭1と郭2の間の堀切㋔。(右側が郭2)

旭山城201404 (118)
やや緩い傾斜と段差のある郭2。

永禄四年(1561)に最大の激戦と伝わる第四回川中島合戦が行われる。
この時、旭山城には上杉軍の守備兵が置かれ、戦線から撤収する小荷駄隊の引き上げを城から打って出て支援し、追撃する武田軍を蹴散らしたという。

信玄が旭山城を直接攻撃する事は無かったが、再興された旭山城には悩まされたという訳である。

旭山城201404 (121)
郭3との間にある堀切㋕。荒っぽいのが素敵。

旭山城201404 (123)
続いて堀切㋖。

旭山城201404 (125)
郭3(通称;物見郭)の通路には巨岩が門の役割を果たしている。

旭山城201404 (130)
現在は見晴らし台となっている郭3。ここからの景色は「あ、絶景かな・絶景かな~」(笑)

第四回の川中島合戦以降、武田信玄は海津城を拠点に北信濃の版図を拡大していき、上杉謙信は信越国境まで後退を余儀なくされる。

旭山城は再び武田軍に接収され最期の大改修が施されたと思われるが、戦線の北上に伴いその役割は海津城や長沼城に移り、使用されなくなったものと想像される。

旭山城201404 (133)
物見郭から見た川中島方面。(ズーム8倍)

旭山城201404 (132)
まあ、こんなやりとりが聞こえるはずありません・・(汗)


【城跡】

無駄を省いた軍事構築物としての山城は「こうあるべきだ!」という要素が凝縮している。

長大な竪掘を基調として研ぎ澄まされた切岸と横矢掛けの段郭、石積みで覆われた城域と虎口。瞬時に司令塔へ情報を伝達できる物見郭。

「スバラシイ、ヤマシロヲバカニスルナヨ キンセイジョウカクヲタクノヤロウドモ」(笑)

旭山城201404 (136)
山を見て城跡が特定出来るのは重症患者であろうか。

旭山城201404 (138)
もちろん善光寺も眼下に納まるロケーション。(ズーム8倍)

旭山城201404 (144)
郭3の南側には雨水溜めがある。水の手の確保には苦労したようだ。

北信濃の山城巡りは、最近では天空の山城と称する石積みが特徴的な鞍骨城(くらぼねじょう)や信玄が城番を置いた尼厳城がブームらしいが、真っ先に見るべきはこの旭山城であり、隣接する葛山城だと思う。

実戦を経験しているこの二つの相対的な山城を見ることで、川中島周辺の城砦群を深く理解出来るのだと思う。

「二度、三度と訪れることで、その城の本当の姿に近づく事が出来るのかも知れない・・・」

小生が「神」と崇める宮坂武男氏の名言である。

旭山城201404 (157)
堀切㋔の南側の堀底は横矢掛け用の段郭が構築され、石積みで補強されている。

旭山城201404 (159)
キンセイジョウカクの野面積み、打込みハギ、切込みハギ、etcよりも心惹かれる石積み。

謙信も信玄も落とせなかった恐るべき旭山城。北信濃を代表する素晴らしい山城である。

≪旭山城≫ (あさひやまじょう 旭城 旭ノ要害)

標高:785m 比高:400m
築城年代:不明
築城・居住者:武田氏・上杉氏
場所:長野市平柴旭山
攻城日:2014年4月12日 
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:20分 駐車場:朝日山観世音駐車場借用。
見どころ:竪掘、郭、石積み、城跡からの見晴らしなど
注意事項:登城口までは舗装路が通じているが、林道なので普通車でのすれ違いは厳しい。
参考文献:「信濃の山城と館②長野・更埴編」(2013年 宮坂武男著)「信州の古城」(2007年 郷土出版社) 「信州の城と古戦場」(2009年 南原公平)
付近の城址:葛山城、大峰城、枡形城など

葛山城2(長野市) (30)
葛山城から見た旭山城。内部事情まで読めそうな至近距離にあるのです・・(汗)












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Posted on 2014/04/19 Sat. 21:15 [edit]

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