らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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須田城 (須坂市小山臥竜山)  

◆コンパクトながら枡形に工夫の残る須田惣領家の城◆

残念な事に昨日は「らんまる公」の生誕記念日である・・(笑)

棺桶に向かってまっしぐらの小生ではあるが、らんまる家の一族郎党は誰も祝う気が無いらしいので仕方なく自分で「お神酒(おみき)」を購入して残り少ない人生に乾杯をしていた次第である・・(爆)

渓流
須坂市の遠藤酒造の「蔵囲い 渓流」。諏訪の銘酒「真澄あらばしり」と並んで大好きな日本酒である。

さて、今回ご紹介するのは須坂市臥竜公園にひっそりと佇む「須田城」である。蔵元の遠藤酒造もこの近くにある。


【立地】

百々川(どどがわ)の北側の扇状地の小山で、それほどの高さは無いが、周辺一帯を視野に出来る絶好のロケーションである。ちなみに竜ヶ池は人工池で1931年の公園整備の際に造られた。

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サンドバッグを叩くアカカンガルーのハッチで有名になった須坂動物園の隣の小山が須田城である。

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在りし日のハッチファミリー(2008年10月撮影 右端がハッチ)

残念ながら急死してしまったが、彼の活躍で須坂動物園は一躍全国区となり、またユニークな動物が多いので今でも休日はたくさんの親子連れで賑わっている。

さて、動物園の話題はそのぐらいにして話を戻そう。

須田城(須坂市) (3)
竜ヶ池側が大手筋らしく、登り口には「日本一小さい滝(?)」と書かれた弁天の滝があり米子瀑布を再現している。


【城主・城歴】

鎌倉時代に当地に勢力を張っていた井上城主 井上三郎満実の子九郎為実は分家して臥竜山の東麓の須田郷に居を構え、須田氏を称する。(本家の井上氏については井上城の拙い記事を参照願います)
室町時代に至って、須田氏は臥竜山へ築城する。南北朝の頃は南朝方として活躍し功績を挙げ、以後須田氏は須田郷と日滝大岩郷と一族が二派に分かれる。大岩郷の須田氏は大岩城に拠ったとされる。


須田城見取図①

甲越合戦(武田VS上杉)の頃には須田一族は内部対立を起こし分裂し、須田郷の信頼・信正父子で村上方に属していたが真田幸隆の勧誘工作もあり、やがて武田に降る。一方、大岩郷の須田満親は謙信を頼って越後へ逃れる。

須田信頼は武田統治時代には大岩郷の所領を含めて安堵され、その子信正は新たに千曲川の川沿いに福島城を築き海津城、長沼城の繋ぎの連絡網の一端を担ったといわれている。(現在の福島城は標柱1本のみで原形を留めていない)

須田城(須坂市) (6)
竜ヶ池から急坂を5分登ると郭4の見晴らし台に辿り着く。まさに絶景である。

須田城(須坂市) (7)
甲越合戦の壮絶な死闘の舞台が一望出来る素晴らしいロケーションである。

その後、武田が滅亡し織田信長が本能寺で横死。織田軍の撤収により九死に一生を得た上杉景勝は川中島四郡を接収し旧領主である北信濃の豪族にその領土を安堵した。須田信正は上杉に降り、大岩郷は須田満親が旧領支配を認められた。

須田城(須坂市) (8)
100m近い長さの郭4.主郭方面に向けてなだらかな登り勾配になっている。

須田城(須坂市) (11)
大手方面からの攻城戦は迂回出来ず正面突破も厳しい。

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北側斜面への迂回を阻止する堀切㋓と迎撃用部隊の武者溜り。

武田の遺領である信濃を巡る上杉・北条・徳川の陣取り合戦は「仁義なき戦い」であり、信濃の土豪も容赦なく巻き込まれ家名存続の為に次々と決断を迫られた。

北条から徳川の配下に寝返った真田昌幸の勧誘工作に応じた須田信正は、内通が上杉景勝に露見してしまい、景勝の命により長沼城の島津勢の攻撃を受けた福島城は落城し須田信正は自刃。須田郷系の須田氏は滅亡。信正の所領は満親に与えられたという。

須田城(須坂市) (16)
堀切㋒。この写真中央の凹みが沢に下りて行く様子が見て分かれば立派な「土の城ヲタク」になれるであろう(笑)

須田信正の失脚とその経緯については、いずれまた記載したいと思う。

そう書いておいて「数年待ちのお蔵入りの記事は、ザラなのだという現実がある・・(汗)」


【城跡】

主郭は35×13の台形で土塁は見当たらない。主郭の北側で一段下の長方形の郭には枡形と土塁が残存するので、公園化または神社の勧進に際して改変されたとみるべきだろうか。

弘治元年(1555)に城館機能を備えた福島城を築城し本城を移転した可能性もある。

特筆すべきは枡形の軍事施設としての機能美であり、在地土豪の猿知恵ではこのトラップは無理であったろう(笑)

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郭1と郭2の間の堀を利用した枡形は「折れ」による横矢掛けを的確に意図している。

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落書きする前の写真。そう見えるかどうかは、貴方次第なのだが・・・(汗)

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堀の中を強制的に通行させてL字に曲げて殲滅するという思想です、ハイ。

枡形を嫌って南側へ逃げ込んだ攻城兵は、急崖の岩場で斜面へ逃げる事もままならず主郭の南に張り出した二段の腰郭に待機している傭兵の餌食となる。

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郭1の北側の帯郭。防衛上の重要な場所であったはずだ。

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台形の郭1。説明板があるが、あまり的を得た説明ではない。

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主郭からの眺め。

現在須坂藩主の堀氏霊廟が設置されている部分が往時の曲輪の最終で、観音堂や墓地となっている搦め手方面の尾根は後世の削平である可能性が高いと思われる。

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須坂藩主の堀直虎公の霊廟。手前に竪掘が入っているので、往時は曲輪だったと思われる。

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堀家の霊廟から見下ろした北東尾根の観音堂周辺。

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観音堂の先の搦め手筋の尾根は墓地造成によりかなり改変されたようである。

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遊歩道が設置されトンネルで覆われた堀切㋐。

大軍相手の籠城戦では数時間も持たない貧相な縄張りだが、周辺の小豪族同士の抗争ならこれで充分であろう。

上杉の家臣団に取り入れられた大岩系須田氏ばかりが脚光を浴びる史実にあって、一族の袂を分かち武田統治時代に活躍した須田信頼や信正の評価が低いのは残念なことである。

名誉回復のお手伝いをしたいと思い、城跡を訪ね記載するのだが、お役に立てていないような気もする・・(汗)

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搦め手の尾根筋の遠景。墓地が乱立し削平された郭になっているが、往時は痩せ尾根だったのだろう。

≪須田城≫ (すだじょう 臥竜山城)

標高:471m 比高:70m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:須坂市小山臥竜山
攻城日:2014年4月13日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:5分 駐車場:臥竜公園駐車場
見どころ:土塁、竪堀、枡形
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 宮坂武男著」
付近の城址:城山城、井上城、月生城、雨引城など

須田城(須坂市) (78)
南東のテニスコートから見た須田城全景。








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Posted on 2014/04/26 Sat. 23:51 [edit]

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