らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
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福島城 (須坂市福島) 
◆武田軍によって修築された北信濃侵攻の軍事拠点◆
某国営放送局の二年後の大河ドラマが信州上田になったからという訳ではないが、「軍師 官兵衛」が面白い。
明智光秀の謀叛とともに謎とされる荒木村重の謀叛を真面目に取り上げているのだから大したものである。

このドラマの前半のハイライトは、官兵衛が有岡城の地下牢に一年近くも幽閉される場面なので今週末は見逃さずに是非見て欲しいものである。

まあ、受信料払ってるのに更に某国営放送局の宣伝するのも片腹痛いので(笑)、本題に戻ろう。
今回ご紹介するのは須坂市にある「廃城とともに地上から消された武田流の平城、福島城(ふくじまじょう)」

福島町の公会堂に立派な史跡案内図があるので、道に迷ったらここに立ち寄ると良いでしょう。
【立地】
千曲川右岸の福島集落は、古く北国街道脇道と大笹街道が分岐する場所であり、千曲川の布野渡し場として宿場町も置かれた交通の要衝である。

道標の「左大笹街道」を折れて進むと福島城址がある。

文禄三年(1594)の福島宿の図。この時点で既に城跡の記載すら無いので消滅していたのであろう。
【城主・城歴】
福島城は須田氏によって築かれた武田方の平城である。城の場所は良く分からない。須坂市福島町の大笹街道起点、道標の東方にあったとされるが、現在の町はかつての街道より東に動いているといわれる。
福島城の築かれた福島は、古代より千曲川の布野の私があった。平城を大河の近くに築く事は、武田氏の特色であった。

農道の左脇に標柱がある。うっかり通り過ぎて気がついた(汗)
福島と指呼の間にある井上には、武田氏の直轄地があったとも推察される。
福島城は、重要な軍道が通る拠点、または渡河地の守りとして築かれたと考えられる。
弘治三年(1557)に上杉氏により山田城とともに攻められているので、築城はそれ以前であることが分かる。

近年耕地整理されてしまい、特定はますます不可能になった。
城代は須田信正であった。須田氏は千曲川沿岸の豊かな地を領していた。永禄九年(1566)さらに八重森の地を給されるように墨坂神社に祈願している。天正十年(1582)武田氏が滅び、須田氏は上杉氏に出仕した。天正十一年~天正十二年頃、須田信正は領地の寄進をしている。

地主さんの話によれば、耕地整理前はクランク状(枡形)の細い街道だったという。城の大手だったのだろうか?
信正は天正十三年(1585)、上杉氏より西山山中の千見城への移動を命ぜられたが、これを不服として真田氏と通じた。このため海津城将の上条氏(じょうじょうし)に誅された。
そしてこの年、一族須田満親が海津城将として入城、一族の左衛門尉(さえもんのじょう)が福島に入城した。
現在、城(じょう)、仲間分、御天地、八幡社、番小屋、井戸などの地名が残る。
~以上、「定本北信濃の城」(1996年 郷土出版社)の馬場廣幸氏の解説文より引用~

福島城の北側部分(推定)。周囲は泥田堀に囲まれた城だったという。

福島城の南側部分(推定)
また一説によれば、天正十二年(1584)の麻績城攻めの際に抜け駆けして軍法違反に問われ、結果として領地を削られて景勝を怨むようになり城を増築改修した。長沼城代の島津忠直が使番を出して須田信正に真意を問いただそうとしたところ、使者を切り捨てた為、長沼城番として詰めていた夜間瀬(よませ)、寺尾、保科、大室が軍勢を率いて福島城を攻撃し、須田信正は城より打って出て討死、須田氏は滅亡し福島城もそれ以降廃城になったという。

現在の福島町。かつて江戸時代には千曲川の布野の渡しより荷揚げされた物資が大笹街道を経て江戸に運ばれた。
築城から僅か30年で消されてしまった福島城。恐らく須田信正が真田昌幸に唆されて徳川に内通した事が発覚し、怒った景勝が長沼城代の島津氏に命じて須田氏を成敗し、海津城代だった上条氏を解任したというのが事実なのだろう。
この時に上杉方により徹底的に破却された(破城)と思われる。

千曲川の堤防道路から見た西方面。
≪福島城≫ (ふくじまじょう)
標高:336m 比高:-m
築城年代:弘治元年(1555)~ (天正十三年五月に落城・破却)
築城・居住者:須田氏
場所:須坂市福島
攻城日:2014年4月27日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:公会堂から歩いて5分 駐車場:福島公会堂借用
見どころ:城址よりも宿場町の史跡?
注意事項:耕作地には入らない事
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」、「定本北信濃の城(1996年 郷土出版社)
付近の城跡:井上城、須田城など

地元の方の熱意が感じられる素敵な石版の説明書(地図入り)
某国営放送局の二年後の大河ドラマが信州上田になったからという訳ではないが、「軍師 官兵衛」が面白い。
明智光秀の謀叛とともに謎とされる荒木村重の謀叛を真面目に取り上げているのだから大したものである。

このドラマの前半のハイライトは、官兵衛が有岡城の地下牢に一年近くも幽閉される場面なので今週末は見逃さずに是非見て欲しいものである。

まあ、受信料払ってるのに更に某国営放送局の宣伝するのも片腹痛いので(笑)、本題に戻ろう。
今回ご紹介するのは須坂市にある「廃城とともに地上から消された武田流の平城、福島城(ふくじまじょう)」

福島町の公会堂に立派な史跡案内図があるので、道に迷ったらここに立ち寄ると良いでしょう。
【立地】
千曲川右岸の福島集落は、古く北国街道脇道と大笹街道が分岐する場所であり、千曲川の布野渡し場として宿場町も置かれた交通の要衝である。

道標の「左大笹街道」を折れて進むと福島城址がある。

文禄三年(1594)の福島宿の図。この時点で既に城跡の記載すら無いので消滅していたのであろう。
【城主・城歴】
福島城は須田氏によって築かれた武田方の平城である。城の場所は良く分からない。須坂市福島町の大笹街道起点、道標の東方にあったとされるが、現在の町はかつての街道より東に動いているといわれる。
福島城の築かれた福島は、古代より千曲川の布野の私があった。平城を大河の近くに築く事は、武田氏の特色であった。

農道の左脇に標柱がある。うっかり通り過ぎて気がついた(汗)
福島と指呼の間にある井上には、武田氏の直轄地があったとも推察される。
福島城は、重要な軍道が通る拠点、または渡河地の守りとして築かれたと考えられる。
弘治三年(1557)に上杉氏により山田城とともに攻められているので、築城はそれ以前であることが分かる。

近年耕地整理されてしまい、特定はますます不可能になった。
城代は須田信正であった。須田氏は千曲川沿岸の豊かな地を領していた。永禄九年(1566)さらに八重森の地を給されるように墨坂神社に祈願している。天正十年(1582)武田氏が滅び、須田氏は上杉氏に出仕した。天正十一年~天正十二年頃、須田信正は領地の寄進をしている。

地主さんの話によれば、耕地整理前はクランク状(枡形)の細い街道だったという。城の大手だったのだろうか?
信正は天正十三年(1585)、上杉氏より西山山中の千見城への移動を命ぜられたが、これを不服として真田氏と通じた。このため海津城将の上条氏(じょうじょうし)に誅された。
そしてこの年、一族須田満親が海津城将として入城、一族の左衛門尉(さえもんのじょう)が福島に入城した。
現在、城(じょう)、仲間分、御天地、八幡社、番小屋、井戸などの地名が残る。
~以上、「定本北信濃の城」(1996年 郷土出版社)の馬場廣幸氏の解説文より引用~

福島城の北側部分(推定)。周囲は泥田堀に囲まれた城だったという。

福島城の南側部分(推定)
また一説によれば、天正十二年(1584)の麻績城攻めの際に抜け駆けして軍法違反に問われ、結果として領地を削られて景勝を怨むようになり城を増築改修した。長沼城代の島津忠直が使番を出して須田信正に真意を問いただそうとしたところ、使者を切り捨てた為、長沼城番として詰めていた夜間瀬(よませ)、寺尾、保科、大室が軍勢を率いて福島城を攻撃し、須田信正は城より打って出て討死、須田氏は滅亡し福島城もそれ以降廃城になったという。

現在の福島町。かつて江戸時代には千曲川の布野の渡しより荷揚げされた物資が大笹街道を経て江戸に運ばれた。
築城から僅か30年で消されてしまった福島城。恐らく須田信正が真田昌幸に唆されて徳川に内通した事が発覚し、怒った景勝が長沼城代の島津氏に命じて須田氏を成敗し、海津城代だった上条氏を解任したというのが事実なのだろう。
この時に上杉方により徹底的に破却された(破城)と思われる。

千曲川の堤防道路から見た西方面。
≪福島城≫ (ふくじまじょう)
標高:336m 比高:-m
築城年代:弘治元年(1555)~ (天正十三年五月に落城・破却)
築城・居住者:須田氏
場所:須坂市福島
攻城日:2014年4月27日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:公会堂から歩いて5分 駐車場:福島公会堂借用
見どころ:城址よりも宿場町の史跡?
注意事項:耕作地には入らない事
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」、「定本北信濃の城(1996年 郷土出版社)
付近の城跡:井上城、須田城など

地元の方の熱意が感じられる素敵な石版の説明書(地図入り)
Posted on 2014/05/21 Wed. 12:23 [edit]
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