らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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雨引城 (須坂市豊丘・高山村高井)  

◆生き延びチャンスを待つ事こそ将の器である事を証明した須田満親◆

飯山市の「菜の花公園」の人気は全国区らしいが、生まれてこのかた行った事が無い・・(汗)

見頃のピークは毎年ゴールデンウィークらしいが、人ごみは嫌いなので、10日間ずらして訪問してみた。

菜の花公園①

ホントなら「黄色い菜の花のジュータン」らしいが、どう見ても「緑のジュータン、そこんとこ夜露死苦!」・・(笑)

菜の花公園②

「菜の花」に対する執念と「家名存続」に対する執念のレベルは全く違うが、今回ご紹介するのは、大岩郷須田氏の詰めの城と伝わる「雨引城 (あまびきじょう)」である。

前回ご紹介した大岩城から尾根を伝って攻める事約1時間。途中で道は消滅し、猿軍団の迎撃に耐えた苦痛の攻城戦記である・・(笑)

雨引城見取図①
単なる見張砦とは思えない。堡塁の連携を基本とした縄張りで郭6は軍勢の駐屯地として機能していたのだろう。

【立地】

須坂市の豊丘地区と日滝地区・高山村の高井地区との間に聳える明覚山(960m)とその東に続く山嶺上に雨引城がある。北側の急峻な尾根を下った所には大岩城や月生城があり、西側の尾根上には古城がある。
南山麓を横切って、東側の灰野峠を越え、水中、赤和を経て山田・中野・飯山へ通じる間道が「謙信道」と呼ばれる上杉軍の軍道である。

雨引城尾根①
猿軍団の迎撃をかわして辿り着いた尾根の鞍部にある堀切㋖。この場所は須坂市と高山村の境界線に位置する。

雨引城(須坂市) (5)
三角点のある西尾根の手前は一条の堀切だけの単純な防御である。

雨引城(須坂市) (10)
三角点のある郭9は標高957.8mだが、山頂ではない。

雨引城(須坂市) (16)
残念ながら現在は雑木林が邪魔で城跡からの景色はあまり良くないが、往時は360度の展望だったと思われる(写真は小布施方面の景色)

【戦国時代の名将 須田満親】

武田信玄の北信濃侵攻により、須田一族は二派に分かれ、須田城の須田信頼-信正父子は武田の軍門に降り、大岩城の満国・満泰兄弟と満泰の子の頼親は越後の上杉謙信のもとへ逃れた。

謙信より越後に所領を宛がわれた須田一族は満国の養子となった満親が家名を担い、信濃先手衆として村上義清・高梨政頼・島津忠直らとともに永禄四年(1561)の川中島合戦で死闘を繰り広げ、その後も上杉軍の信濃方面軍として国境警備の任務に付き謙信の信任も厚かったという。

雨引城(須坂市) (14)
郭10の先端には土留めの石積みが見られる。

雨引城(須坂市) (18)
郭10と堡塁11の間の堀切㋘。尾根を上ったり下りたり繰り返すので結構しんどい(汗)

雨引城(須坂市) (17)
堡塁11を見上げる。えー、また上るの?

武田信玄の北信濃における支配地域がほぼ確定し甲越の国境紛争が一段落すると、今度は越中の富山城主神保長職(じんぽながもと)が武田信玄と結び、上杉謙信の支配下となっていた魚津の松倉城主椎名康胤(しいなやすたね)を攻撃し越中支配を企む。
永禄三年(1560)三月、謙信は松倉城救援の為に越中へ出陣し須田満親もこれに従軍。富山城の神保長職を攻撃しこれを落とし神保氏を追放する。

ところが永禄十二年(1569)八月、今度は松倉城の椎名康胤が叛いて武田信玄に寝返ると云う状況になる。怒った謙信は越中へ侵攻し松倉城とその支城の新庄城を落とし、十一月には河田豊前守長親を魚津城に置き越中支配を進める。
しかし越中では一向一揆側の抵抗に遭いこれにはさすがの謙信も手を焼いており、一進一退を繰り返していた。

雨引城(須坂市) (27)
須田氏の最初の見張砦だったとされる古城と須田城も良く見える。(堡塁11からの遠望)

この間、須田満親は奥さんの実家の船見姓を名乗っていたらしい。幼少の当主の後見人として船田家を仕切りその後須田姓に戻したと云う。

天正四年(1576)、織田信長と全面対決している本願寺顕如から助けを求める使者が謙信のもとを訪れた。この時の和睦交渉は須田満親が絡んだとされ、本願寺との和睦条件が整うと直ちに越中の一向一揆は停止となり、謙信は越中一国の平定に成功。翌年、畠山氏の守る能登の七尾城を攻撃。

雨引城(須坂市) (33)
郭7。奥に見える山は郭9。結構距離があります。

堅固を誇る七尾城は籠城戦を耐えたが、畠山七人衆が信長派と謙信派に分かれてしまい、柴田勝家を総大将とする織田軍の到着前に内応した遊佐続光が上杉軍を城内に引き入れた為落城。
加賀の手取川付近まで進軍していた織田軍は落城を知ると退却に移るが、謙信はこれを追撃し織田軍を蹴散らす(手取川の戦い・・・・実はこの合戦は無かったのでは?という説がある)
この時に須田満親は「大目付衆」であったという。

雨引城(須坂市) (34)
痩せ尾根でアップダウンを繰り返す我らはヘロヘロになりつつあった・・・猿になったほうが楽だと思えた・・(汗)

雨引城(須坂市) (40)
郭1。L型の土塁の痕跡が認められる。見張場なのでこの程度で充分。

謙信が没すると御館の乱が始まり、須田満親は終始景勝方として活躍する。その後、越中・加賀において織田信長との対決が避けられない事態となると、須田満親は松倉城代として上杉軍の越中における指揮権を任される。

天正十年(1582)三月、織田・徳川の連合軍による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、信長は上杉包囲作戦を敢行。四月に入ると北陸の織田勢(柴田・佐久間・前田)に魚津城攻めを命じ、越後の新発田を内応させ、信濃の海津城からは森長可が春日城を目指し進軍、三国峠へ向けては上州から滝川一益を派兵させた。

「もはやこれまで・・・」 そんな時に本能寺の変がおこり、事態は急転直下したのである。

雨引城(須坂市) (43)
郭2。削平が甘く緩い傾斜となっている。

雨引城(須坂市) (49)
堀切㋕。こんな山の上にも堀切作ってガードするんです。

織田軍の突然の撤収で息を吹き返した上杉景勝は、北信濃へ侵攻し川中島四郡を抑える。一方越中との国境で上杉軍の撤収を指揮していた須田相模守頼親は松倉城、魚津城を奪取し再び越中東部を占領した。

雨引城(須坂市) (59)
郭3は明覚山の頂上(982m)。祠の石積みは後世のものであろう。

雨引城(須坂市) (66)
東斜面からみた堀切㋒と㋓。急斜面に連続させているので防御効果は高い。

再び越中の魚津城で指揮を執る須田満親は景勝より越中の仕置きを一任され、佐々成政と対峙する。
能登・加賀を制圧するチャンスとみた頼親は、重ねて景勝の出馬を催促するも、徳川・北条と三つどもえの争奪戦となった信濃から身動きが取れず北陸方面への侵攻は断念せざるを得なかった。

雨引城(須坂市) (61)
カモシカくんは四輪駆動なのでどんな斜面や岩場でもガンガン登れる。羨ましいなあー。

いわゆる「清州会議」で秀吉と勝家が対立し対決が避けられない状況になると、柴田勝家を支援する足利義昭(毛利氏のもとへ亡命中)からも勝家本人からも味方になるよう須田氏に対して書面が届けられる。
また、当然羽柴秀吉からも誘いがあり、使者との直接面談は満親が行っている。この事からも、須田満親が上杉家の対外交渉の外交官として認識されていたことが分かる。

雨引城(須坂市) (71)
郭4。ここも痩せ尾根を削平しただけの一騎駈け仕様である。

雨引城(須坂市) (72)
このあと攻め込む月生城を臨む。この時は途中で道が消えて苦難が待ち受けているとは思わなかった。

翌天正十一年二月、須田満親の進言もあり、最終的に景勝は秀吉との連携を決める。
上杉家のその後の動向は、ご存知の通りである。

川中島四郡に覇権を確立した景勝は、北信濃の諸士の旧領復帰を実現した訳だが、上杉家に対する貢献度も勘案されたため景勝時代に戦功が無かった高梨氏、井上氏は、武田氏滅亡後に旧領を安堵された武田旧臣に比べ大きく削減されたという。
ずば抜けた功績のあった須田満親だったが、この時点では旧領への復帰が叶わなかった。大岩郷の須田氏の領地はそのまま福島城の須田信正の領有が認められたからである。

雨引城(須坂市) (80)
郭5から見上げた郭4。結構な落差がある。月生城へ行くには郭4へ戻るので、また上ると思うと溜め息が出た(汗)

何か密約があったのであろうか?越中方面の軍司令官だった須田満親は天正十三年六月に劇的な信濃復帰を果たす。

●福島城の須田信正、天正十一年四月に麻績城攻めで軍法違反を犯し所領を1/3に減封される

●天正十二年三月、海津城の副城将屋代秀政が徳川方に寝返り荒砥城へ籠城。景勝が出馬しこれを平定。海津城代の村上国清も内通の嫌疑をかけられ城代を解任され帰国させられる。(次の海津城代は上条宣順政繁)

●小笠原貞慶との争奪戦が激化している安曇郡千見城への在番を命じられた須田信正は、この命令を不服として福島城に引き籠る。この時に徳川方であった真田昌幸の調略を受け内通。天正十三年五月、須田信正は上杉軍に反旗を翻すが、景勝より信正成敗の命令を受けた海津城代の上条が長沼城代の島津氏を派兵してこれを滅ぼす。

●天正十三年六月、海津城代の上条宜順政繁は須田信正反乱の責任を取らされ罷免される。(上条氏は謙信の養子で直江兼続の政敵だったという)

雨引城(須坂市) (82)
思わず弱音を吐く・・・(笑)

海津城代となった須田相模守満親は、須田信正が滅びた為に再び惣領家として旧領を宛がわれ、それ以上の所領の加給を受けて名実ともに信濃復帰を果たした。(おおよそ一万二千石で信濃先手衆としては第一位である)

この裏には景勝、兼続との取り決めがあったことは想像に難くない。

天正壬午の乱における徳川と北条の講和条件として、真田氏の沼田領の引き渡しがあり真田氏はこれを拒否。徳川方を離反し海津城代の満親を通じて上杉への接近を画策した。さんざん昌幸には煮え湯を飲まされた上杉であったが、真田を味方にすることで徳川との直接対峙を避けられるので、満親は景勝に上奏して和議締結が決定された。

その後の上田合戦における上杉軍の支援はご存知の通りである。(えっ?聞きたい?また今度ね)

雨引城(須坂市) (86)
灰野峠を守る部隊が駐留したと思われる郭6.北風除けだろうか、L字型の土塁がある。

天正十五年(1587)五月、毛利輝元と共に参議に叙任された景勝はお礼の為に上洛。満親も侍従し聚楽第で秀吉と会見し饗応を受けた。同年八月、再び上洛し景勝に侍従していた直江兼続・色部長真・須田満親の三名は秀吉から豊臣姓を授けられた。(この時に直江兼継は山城守に叙任されている)

あ、そうそう、須田満親には二人の子があり、長男満胤(みつたね)の嫁は直江兼続の妹「きた」である。
ところが、この満胤、伏見城の舟入普請で課役が果たせず景勝により改易され京都で浪人となり行方知れずとなった。
※高梨氏も同様に役目が果たせず改易されている。
(満胤の子満統は叔父さんの兼続、嫁の実家の本庄繁長の口添えもあり赦免され二百石取りとなった)

長男の改易により須田惣領家を継いだ二男の長義は、上杉家の会津移封に伴い森山城(守山城とも)に移り、その後梁川城代として二万石を領したと云う。

ところで、我が世の春を謳歌した須田相模守満親はいつ死んだかって?

慶長三年(1598)一月、越後・北信濃から会津百二十万石への国替えを命じられた上杉景勝に対して、満親は移封を延期するように諫言したという。(これには諸説あるという)
ま、せっかく戻れた祖先の土地から離れたくないと云うワガママが景勝に通る訳も無く、その後は淡々と海津城代としての最後の仕事を遂行し終わると病に倒れ、三月四日に亡くなったという。(自刃説もあり)

雨引城(須坂市) (88)
郭6を東へ下りていけば灰野峠に出る。

さえ、つらつらとお送りした「須田満親物語」、如何だったでしょうか?
この記事をクソ暑い部屋で延々と6時間も書いている私ってバカ??アホ??オマヌケ??


≪雨引城≫ (あまびきじょう)

標高:970m 比高:555m
築城年代:不明
築城・居住者:須田氏
場所:須坂市豊丘/高山村高井
攻城日:2014年4月20日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:120分(主郭まで)  駐車場:無いので適当に路駐。
見どころ:堀切、土塁、石塁、天水溜めなど
注意事項:野生の猿が出没します。特に親子連れには注意。
裏技:軽自動車なら林道で灰野峠まで行かれるので、そこからショートカットするのが良い(笑)
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」、「信濃須田一族」(平成22年 志村平治著)
付近の城跡:大岩城、月生城、福島正則居館跡、城山城など

月生城(上水内郡高井村) (99)
大人の遠足とは、遥か遠く道無き道を開拓して藪と戦い猿に怯えてカモシカに馬鹿にされても挑み続ける楽しさがある。








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Posted on 2014/06/01 Sun. 15:56 [edit]

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