らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0607

山田氏居館 (上高井郡高山村中山)  

◆枡形城を乗っ取られた山田高梨氏はここに住んでいたのか?◆

関東にお住まいの皆さまには連日の豪雨、謹んでお見舞い申し上げます。
土砂崩れや低い土地の浸水、付近の河川の氾濫には充分ご注意下さい。ヤバくなる前に必ず逃げましょう。

雨雲が関東方面に援軍で出払ったせいか、信州は曇り時々パラパラ・・・(って踊るんかい!)

先週に引き続き戸隠・鬼無里への遠征も無事に完了しました。貴女紅葉さんのお話はそのうちに。

紅葉伝説201406 (146)
鬼無里の「東京(ひがしきょう)」の加茂神社の狛犬。ワールドカップに向け練習中だとか。

今回ご紹介するのは、枡形城の麓にある山田氏の居館と伝わる場所で、真法寺。

山田氏居館(高山村) (1)

【立地】

枡形城の記事でも紹介したが、この場所は間山峠、大熊峠などを通る通称「謙信道」と呼ばれる古道が通る所で戦略上重要な場所であった。

山田氏居館(高山村) (2)
山門脇の説明板。

説明板によれば、天正六年三月に城が燃え奥州に退去したとある。同月には上杉謙信は亡くなっているが、武田勝頼の勢力下なので関係は無さそうだ。戦国時代のボヤ騒ぎは「叛意あり」とみなされ厳しい沙汰が下されるし、まして城を焼失したとなれば言い逃れ出来ないと追い詰められて逃亡したのだろうか?

山田氏居館跡見取図(高山村)

全国的に居館の跡地に神社仏閣が移転しているケースが多々あるが、全てがそうではないだろう。
往時の宗教勢力は武装勢力としても侮りがたく、豪族側が意識的に取り込んだとしても不思議はない。

真法寺は枡形城主の原氏の承諾を得て居館跡に移転したというが、奥州に逃亡した領主に許可を求めるのは可笑しな話で、武田勝頼が原氏の領分の一部を寺領として寄進したか、それ以前にこの場所にあったと思われる。

山田氏居館(高山村) (5)
本堂を囲む長屋には石仏が所せましと並んでいる。

山田氏居館(高山村) (10)
本堂。大抵は屋根の頂部に「紋」が施されているのだが、真法寺には無かった。

【城主・城歴】

高梨氏の家臣として須田領と接する松川以北を守備していた山田氏だったが、弘治三年(1557)に武田方が葛尾城を急襲し落城させ全員が虐殺されると、武田の調略により内通。(夜間瀬氏・小島氏も同調したらしい)

その後、怒り爆発した謙信により山田城(枡形城)と福島城は取り返されてしまうが、再び武田が制圧する。

山田氏居館(高山村) (13)
お寺の西側の墓地から見た枡形城。あっという間に草茫々でございます(笑)

その後、飯山城を境として信越国境がほぼ確定すると、山田氏の監視体制は用済みになった可能性は否定できない。

山田氏居館(高山村) (14)
北西隅には土塁のような盛土の跡があるが、往時のものだろうか。(花桃の花弁が地面をピンクに染めている)

山田氏居館(高山村) (17)
居館南の道路は堀だった可能性がある。

寺=中世の城館という図式が当たり前になっているようだが、そこはキチンと調べなければ間違った情報になる。
古文書も限られ、家長制度が崩壊し先祖代々の口伝もロクに伝わらない現代において、課題は山積である(汗)

山田氏居館(高山村) (18)
居館の西側。道路は堀形、垣根には土塁があったと思えばそれらしく見えない事も無いが・・。

≪山田氏居館≫ (やまだしきょかん)

標高:546m 比高:-m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上高井郡高山村中山
攻城日:2014年5月17日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:北西の土塁跡
注意事項:お寺さんといえど民家です。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編 2013年 宮坂武男著」
付近の城跡:枡形城、山田高梨居館など

城山城(上水内郡高山村) (84)
松川を挟んだ対岸の須田領の城山城から見た枡形城、山田氏居館とその周辺。








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Posted on 2014/06/07 Sat. 22:34 [edit]

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