らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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新府城2 (山梨県韮崎市中田町 リテイク)  

◆天正壬午の乱が証明した武田勝頼の「所堅固の城」の先見性◆

【城ヲタクの豆知識】

「堅固三段(けんごさんだん)」という言葉をご存知だろうか?

江戸時代に入ると、兵法の用兵・戦術に関する学問が盛んになり、戦乱が絶えると軍事学を後世に継承していくために「軍学(ぐんがく)」となり、研究者は軍学者と呼ばれた。

もちろん、城に関しての研究も進められて、いかにして自分たちの身を守るかを、城をキーワードに三段階に区分したものを「堅固三段」と呼んだ。

具体的には「城堅固」(しろけんご)、「所堅固」(ところけんご)、「国堅固」(くにけんご)の三つである。

新府城跡 040

「城堅固の城」は、城の堅固さを中心にした城のことで、城そのものを堅固に築き、城で敵の攻撃を防ぐという形になった城をさしている。城が防御の主体になったものである。近世城郭に多く見られる。

それに対し、「所堅固の城」は、城を中心にしながらも、その地域の地形などを巧みに盛り込んで防御を考えた城で、城の近くにある川や沼・池、さらに山など自然地形を文字通り、天然の要害にしようとしたものである。戦国の城に多く見られる。

もう一つの「国堅固の城」は一国、戦国時代であれば、その戦国大名の支配領域全体を防御地帯として構想して築かれた城のことをいう。国境の防備に力を入れたり、本城と支城を結ぶ繋ぎの城などが完備した形はこの「国堅固の城」の概念に当てはまると思われる。

あまり使われない分類方法ではあるが、知っていれば「さすが・は戦国の城中毒」の評価であろうか・・(笑)

能見城西側枡形
新府城の北側防御ラインとして築かれた能見城の西側枡形と西曲輪へ続いた横堀址。

さて、今回ご案内するのは四年前に適当な記事として載せた「新府城」のリテイクである。

目新しいものは特に無いが、小生が四年の歳月で得た泡のような知識とゴミのような経験で再訪した未完の城の再評価を改めて記事にして見ようと思う。

韮崎市エリアマップ①
これぞ「所堅固の城」というのがわかる観光マップへの落書き(著作権侵害か・・汗)

【立地】

釜無川と塩川の間にある七里岩の台地上に立地している。この台地上は岩屑流による小円頂丘が散在する流山地形となっていて、新府城は七里岩の浸食崖も接した流山を利用して築かれている。

新府城②(韮崎市) (2)

【城主・城歴】

天正六年(1578)に上杉謙信が亡くなり御館の乱が起こる。武田勝頼は景虎と景勝を和解させ甲・越・相の三国同盟を目論むが、結果として武田の支援を受けられなくなった北条側の景虎が滅亡してしまい、甲越同盟の成立と引き換えに甲相同盟が破棄されるという皮肉な結果となった。

関東の北条を敵に回し織田・徳川の連合軍からの挟撃という厳しい情勢の中で、天正九年(1581)一月、武田勝頼は武田家の命運を賭けて新府築城と本拠地の移転を決断する。

新府城②(韮崎市) (3)
新府城の縄張りにおける特徴と云われる「出構え」(でがまえ)。

【ちょっとタイム①・・出構えとは?】

現地の解説版では「外郭の一部を長方形に堀の中に突出させた鉄砲陣地」として「北方の敵襲に対して十字砲火を浴びせる場所」としている。(いわゆる鉄砲用の横矢掛)
未完に終わった新府城のこの防御施設には色々な見方があり、「木橋が先端に掛けられた虎口の一種」だとか、「その先には丸馬出しと三日月堀があったのでは?」、「外枡形になるはずだった」「稜保(りょうほ)の原型」、はたまた「西と東では形が違うので用途も違ったのでは?」という意見もあるという。
色々な妄想が膨らむのも多いに結構、なんて個人的には思ってますが・・(笑)

新府城②(韮崎市) (7)
東堀から見た「西出構え」。ショートケーキのように堀に突き出した三角形は五稜郭や竜岡城なんかの稜保の原型かしら

城の普請奉行には真田安房守昌幸が任命され、天正九年二月から昼夜兼行の突貫工事が進められた。新府への築城を建策したのは御一門衆の穴山信君(あなやまのぶただ または穴山梅雪)で、七里岩の台地上は穴山氏の出身地である。
真田昌幸が信濃先方衆である出浦氏に宛てた手紙によると、起工の日は天正九年二月十五日とし、十軒に一人の人足を三十日間出す事、人足の食料は軍役衆が持つことなどが示されている。こうした動員は領国全域に及んだものと思われる。

新府城②(韮崎市) (10)
西出構から見た中堀(なかほり)。往時は水堀だった可能性が高い。

築城を開始した翌月の三月二十二日、遠江の高天神城が後詰め(救援のこと)されないどころか徳川軍に開城降伏を申し入れても拒否され、全員が突撃し全滅して落城。(城兵の半数以上は既に餓死していたという凄惨な状況だったという)
勝頼は徳川、北条の領国侵攻に対処し各地を転戦。新府城は九月には一通り完成していたようだが、躑躅ヶ崎から新府へ移転したのはそれから三ヶ月後の十二月二十四日だった。

新府城見取図①

勝頼は天正十年(1582)の新春は新府城で迎えたが、正月早々親族の木曾義昌が織田氏に通じ反逆したとの知らせが入り、一月二十八日木曾討伐の兵を出し、勝頼自らも二月二日に出陣し、上原城へ後詰めとして滞陣している。
これに対して二月三日、織田信長は諸候に命じ武田征伐の軍を起こす。伊那口、木曾口、飛騨口、そして駿河口、北条方は関東口から進軍が始まる。二月十六日、鳥居峠で武田軍は敗れ、伊那口や駿河口では寝返りが続出し、その為に勝頼は高遠城を後詰め出来ずに新府城へ戻る。

新府城②(韮崎市) (9)
外郭の土塁はキチンと普請されて堰堤と錯覚するような造りだ。

二月二十五日、一族の穴山信君が織田信長に内応し三月一日に江尻城を開城。三月二日に高遠城落城。武田氏が組織的に戦ったのは鳥居峠と高遠城ぐらいである。
こうした緊迫した中で逃亡者が続出し、新府城も三月三日に武田軍が火を掛け自落。勝頼一行は岩殿城へ向かうが、小山田信茂の背信により三月十一日田野において武田氏は滅亡する。勝頼が新府城に在城したのは僅か70日ばかりであり、まさに短命の城であった。

このあと信長が本能寺で斃れると、甲斐の国は徳川と北条の争奪戦となり天正壬午の乱の対陣となる。この時焼け落ちていた新府城は家康の命によりいち早く徳川軍が接収し本陣を置いた。
徳川軍により多少の改修はされたと思われるが、基本的には武田による築城時の遺構が残っていると見てよさそうである。

新府城②(韮崎市) (24)
搦め手口の西堀からL字型で空堀を引きこみ搦め手の郭を独立させている。

【城跡】

●搦め手郭(乾門)

搦め手郭は乾門(いぬいもん)とも呼ばれ、内枡形の外側は一の門、内側は二の門が建てられていたようだ。
枡形の土塁も外側は低く内側に向けて高さを増す特徴的な構造で興味深い。

新府城②(韮崎市) (39)
搦め手は字名として「三日月堀」という名が残っているという。信濃方面への備えとして丸馬出しと三日月堀を設置し二重馬出しだった可能性は否定できない。

新府城②(韮崎市) (40)
東西13m南北12mの枡形。奥に向かって土塁が高くなっているのがお分かりになるでしょうか?

新府城②(韮崎市) (34)
西側の望楼址から撮影した枡形内部。土の芸術作品でございます。

新府城②(韮崎市) (35)
この位置から狙い撃ちされたら一網打尽でございますw

新府城②(韮崎市) (31)
枡形の二の門を抜けた郭(馬出し)は土塁で囲まれているが、平削も中途半端で工事途中で放棄されたような印象。

●井戸跡

搦め手郭から二の郭へ向かう途中の中腹に直径32m(!)の井戸跡がある。発掘調査では地表から4m掘り下げても底に到達出来なかったことから「マイマイ井戸」(らせん状に掘り下げた井戸)あるいは雨水や染みだした地下水を溜める
天水溜め」だった可能性を示唆している。北西100mの外郭にも同様の井戸跡が確認出来る。

新府城②(韮崎市) (23)
草茫々の井戸跡。写真撮っても何がなんだか・・・(汗)

新府城②(韮崎市) (15)
中堀に接する外郭の土塁の内側にある井戸跡。

●二の丸とその周辺

比高がそれほど高くない新府城は、郭の輪郭と迷路のような通路に土塁を多用しているのが特徴で、普請奉行の真田昌幸を中心とした武田諸将の苦労の跡が伺える縄張りである。

新府城②(韮崎市) (46)
二の丸。

新府城②(韮崎市) (49)
H字形の土塁(しとみの構え とも?)で区分された本丸との接続用の郭。

●本郭(本丸)

城域の最高所にあり東西90m南北120mの広さもつ本郭は、周囲を土塁で囲まれロケーションも良い。
北1.5kmの能見城防塁も目と鼻の先である。

新府城②(韮崎市) (53)
広大な本郭。

新府城②(韮崎市) (55)
織田の侵入に備えた信濃口の防御ラインである能見城。奥の山は八ヶ岳連峰。

●馬出し・西三の丸・東三の丸

車道で破壊された土塁があるものの、概ね良好な保存状態である。仕切り土塁で区切られた東西の三の丸は未完成で、大手口である丸馬出し⇒枡形⇒東三の丸虎口という進み方になっているが、西三の丸から馬出しへの接続が良く分からない。

新府城②(韮崎市) (59)
車道によって破壊された土塁。本来は馬出し⇒二の丸⇒蔀の構え⇒本丸虎口という入り方であろう。

新府城②(韮崎市) (60)

新府城②(韮崎市) (66)
わざわざ土居で三の丸を分割している。何か意味があるのだろうか?

新府城②(韮崎市) (67)
通常なら「折れ」を付けても良さそうだが、全くの直線なので、不思議である。

新府城②(韮崎市) (68)
東三の丸。西側よりは若干広い。

●大手口(三日月堀・丸馬出し・枡形)

甲州流築城における最期の丸馬出しが現存している。諏訪原城、大島城、牧之島城と全く同じ構造で、枡形も前後二箇所に木戸(門)が置かれたと考えられる。ここの枡形も搦め手の枡形同様にかなりの威圧感がある。

新府城②(韮崎市) (69)
枡形の北側。ここを制圧しなけば城内には侵入出来ない。

新府城②(韮崎市) (70)
瞬殺されそうな威圧感のある枡形空間。

新府城②(韮崎市) (73)
低い土塁が巡る丸馬出し。

新府城②(韮崎市) (75)
三日月堀を見下ろして撮影。

新府城②(韮崎市) (79)
美しい弧を描く三日月堀と馬出しの切岸。(西側)

新府城②(韮崎市) (89)
東側は草が無く往時の面影があります。

新府城②(韮崎市) (90)
丸馬出し東側の入口(大手口)

いかん、ツラツラとまた写真を並べてしまった・・(汗)
土の軍事構築物に美を求めるなんぞ、笑止千万と思われるかもしれないが、土だからこそイイのである・・(笑)

●首洗い池

物騒な名前が付いた場所であるが、実際は東堀の一部で籠城時には堰き止めて水堀となったのであろうか。
周辺の草刈りをしていた叔父さんが巻尺持ってウロウロしている小生を不思議そうに見て訪ねて来たので、「信州の山猿がお城見に来ましたあー」と答えたら、「遠いところから御苦労さん!(笑)」

新府城②(韮崎市) (101)
立派な人工の堤である。

新府城②(韮崎市) (104)
一段上の堤から見下ろす。

新府城②(韮崎市) (106)
首洗い池の北側は水堀址で東堀として連結していたと思われる。

【武田領の新たな防衛拠点として築かれた新府城】

家臣の反対を押し切ってまで、わざわざ躑躅ヶ崎館(甲府)から新府城(韮崎)に移転する理由はなぜだったのでしょうか。
雑誌「歴史街道」2013年11月号の「特集Q&A武田勝頼の真実」の中で、歴史家「平山 優」氏は、
①甲斐・信濃・駿河・上野・東遠江に跨る武田領において甲府は東に寄り過ぎ韮崎なら中心にふさわしい。
②織田信長に対する防衛地点として地勢に有利であること。
と解説し、先見性のある決断としています。
残念ながら、織田との対決の前に自落してしまい、武田軍による籠城戦は無かったのですが、その後勃発した天正壬午の乱で、新府城を拠点とした徳川家康は、寡兵ながら北条の大軍を破り新府城(+能見城防塁)の堅固さと地勢の有利を実証しました。まさに「所堅固」の城であり、近世城郭へ移行する過渡期の縄張りは必見でしょう。

新府城②(韮崎市) (58)

≪新府城≫ (しんぷjじょう、新府中韮崎城)

標高:524m 比高:130m(七里岩下より)
築城年代:天正九年(1581)
築城・居住者:武田勝頼、徳川家康
場所:山梨県韮崎市中田町
攻城日:2013年10月12日 
お勧め度:★★★★★ (甲州流縄張最期の城)  
城跡までの所要時間:-分
見どころ:全部隅々まで見ましょう
注意事項:特に無し。夏は藪が多い。
駐車場:専用駐車場あり
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著) 「戦国武田の城」(中田正光著)
付近の城址:能見城防塁、丸山の塁、穴山氏館など

白山城(韮山市) (88)
釜無川の対岸にある原山神社付近よりの遠景。

Posted on 2014/07/21 Mon. 15:02 [edit]

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