らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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獅子吼城 (山梨県北杜市須玉町江草)  

◆石だらけの岩山だから石を利用する発想という秀逸の城・・made in 武田/Produced by 北条◆

タイトルの文字を見て「ししくじょう」と読める人が果たして何人いたのでしょうか?

小生も漢字の読み方が分からず、漫画の「らんま1/2」(原作:高橋留美子)に出てくる響良牙(ひびきりょうが)の必殺技の「獅子咆哮弾」(ししほうこうだん)の親戚ぐらいに思っていて「ししほうこうじょう」などと間違って覚えておりました・・・(汗)

「獅子吼」(ししく)とは、仏の説法で、獅子が吼えて百獣を恐れさせるように、悪魔・外道(げどう)を恐れ従わせるところから来ているが、この城の命名がこの語源なのかは定かでない。

獅子吼城(北杜市) (3)
江草町の道路には獅子吼城への道案内看板があるので迷わずに登り口まで車で行ける。

かつての大手道は塩川の根古屋集落の「根古屋大明神」の裏側を登るルートらしいので、極めたいならそちらもアリ。

【立地】

北杜市江草の根古屋神社の背後の山(地元では城山と呼ばれている)にあった。甲信国境近くに位置していたため国境(信州峠)監視とともに、当時から佐久甲州街道(現在の国道141号線)の裏街道として知られていた若神子から長野県佐久市に至る道が通っていたことから、この街道を押さえる関門でもある。

獅子吼城見取図①

【防御の指向性】

単純に縄張図だけを見て判断すると、防御施設が城域の東側を重点に置かれた様に見えるが、基本的には全方位であり、立地のウィークポイントが東の尾根側になるので後付けで強化したと見るのが無難かもしれない。

獅子吼城(北杜市) (5)
現在の登り口方面は搦め手方面だった可能性がある。

獅子吼城(北杜市) (10)
最初にお目にかかる竪掘㋑。(上巾8m)

獅子吼城(北杜市) (11)
長大な竪掘として北の斜面を下りていく堀切㋑。

天正壬午の乱における北条側の改修ばかりが宣伝される防御だが、この遺構は武田による末期の改修と見れるが・・。

が、何を根拠に?と云われても「ちょっちねえー、野生の感ってヤツですか・・・」(笑)

獅子吼城(北杜市) (16)
搦め手側も厳重な防御システムなのでビックリ。

獅子吼城(北杜市) (83)
横堀㋕の東端と遮蔽土塁の間にある枡形虎口。この城の防御構造では特筆すべき場所の一つであろう。

【城主・城歴】

ハッキリしたことは不明であるが、以下が獅子吼城の周辺を領有した豪族の履歴であるという。

応永年間(1394~1428年)には江草兵庫助信泰(または信康、甲斐武田氏13代の武田信満の三男)が居城としていたといわれるが、その後、甲斐武田氏の一族の今井氏が居城とした。

1530年(享禄3)、甲斐守護で信玄の父の武田信虎が扇谷上杉朝興と結び、朝興の叔母で山内上杉憲房後室を側室に迎えようとしたことから、今井信是・信元は信虎と対立し、翌年に飫富兵部少輔らと甲府を出奔して大井信業・栗原氏ら甲斐の有力国人領主や信濃・諏訪の諏訪頼満(碧雲斎)を巻き込んだ大規模な反乱へと発展した。諏訪氏と今井氏ら反信虎勢力は信虎が整備した笹尾塁を陥落させて甲府へと進軍したが、同年2月2日と3月3日の合戦で信虎に敗れた。

その後、今井信元は居城の獅子吼城に拠って信虎に抵抗したものの、同年9月に信虎に城を明け渡して降伏した。これにより信虎による甲斐統一が達成された。

獅子吼城(北杜市) (29)
横堀㋕。天正壬午の乱における後北条氏の改修跡だという方も多いが、元々は武田による縄張りだと思うが・・。

1541年(天文10)、信虎の嫡男・晴信(のちの信玄)は信虎を駿河に追放して家督を相続したが、晴信は信州峠、甲州佐久街道を押さえる要所として獅子吼城を整備した。信玄が整備した狼煙台の一つとしても機能していたようである。

獅子吼城(北杜市) (31)
これだけの岩石が露出しているなら、岩を利用するのが無駄の無い築城方法であろう。

獅子吼城(北杜市) (33)
石積みの山城は信濃では珍しくないが、甲斐では貴重なのかもしれない。

天正十一年(1583)6月2日の本能寺の変で信長が死去すると甲斐に一揆が起こり、河尻秀隆は討ち死にした。その後の武田氏の遺領をめぐって徳川家康と北条氏直が対立して両者が争奪戦(天正壬午の乱、甲斐における戦国時代最後の戦い)を繰り広げたが、徳川家康が新府城(韮崎市)を本陣としたのに対し、北条氏直は若神子城(北杜市)を本陣とし、獅子吼城も北条氏の拠点となった。

獅子吼城(北杜市) (40)
石積みによる石塁の構築は後北条氏の改修だと云われているが、どうでしょうか?

同年9月、徳川家康配下の服部半蔵と旧武田氏遺臣の津金衆・小尾衆らは、北条勢の籠もる獅子吼城に夜襲をかけて陥落させている。その後、徳川氏と北条氏との間に和睦が成立して、徳川氏による甲斐支配が確定したが、その後間もなく獅子吼城は廃城となった。

獅子吼城(北杜市) (41)
崩れやすい石塁こそ、防御の要であったと思われる。

【城跡】

城域は全てが岩山で、巨石が至る所にありそれらを用いて石塁で覆われた山城としている。
山頂にある主郭は、小生の実測値は30×23であった。現在、主郭からの見晴らしは良くないが、往時は若神子城、新府城、能見城などの周辺の諸城は手に取るようなロケーションにあった。

信玄時代は信州峠に至る裏街道を見張る境目の要衝として、ある程度防御システムの強化を受けたものの、信濃の侵略と国境が固定化すると、お役御免になったのであろう。

獅子吼城(北杜市) (42)
主郭への通路は、人が一人でやっと通過出来る狭さである。

獅子吼城(北杜市) (45)
東側の段郭二段。

獅子吼城(北杜市) (51)
主郭の東に突き出た馬出し部分。

江草富士と呼ばれる独立峰の小山に単郭を置いた単純な山城であるが、防御構造は最先端の技術が用いられているので、武田時代における新府城防衛網としての末期を経て、徳川VS北条の旧武田遺領の争奪戦でも重要なポジションとして改修が加えられたものと推定される。

獅子吼城(北杜市) (66)
南側から見た主郭。

その堅固な構えと城歴から、どうしても天正壬午の乱における北条方の城として脚光を浴びてしまうものの、信玄・勝頼時代には烽火台として重要な役割を担っていたようである。

獅子吼城(北杜市) (50)
武田統治時代は、信州峠に繋がる街道を抑える要衝としての任務もあったのだろう。

獅子吼城(北杜市) (61)
主郭西側の帯郭。

獅子吼城(北杜市) (69)
本来の大手筋であった西側の郭。

信玄が棒道を整備して佐久への出撃を繰り返し行う際には、街道の要衝を抑える重要な拠点として改修が施されたものと推察される。

天正壬午の乱では、若神子城に本陣を構築した北条軍の佐久方面からの兵站を守る基地として更に要塞化されたものと思われる。

獅子吼城(北杜市) (71)
主郭の北側下部の切岸。

前述にもあった通り天正壬午の乱で、この城を落としたのは服部半蔵その配下だという。

なるほど、正攻法で落とせない城ならば、忍者軍団の出番であろう。

「血沸き肉躍る」・・・ゲリラ戦を得意とする特殊部隊を擁する家康ならではの戦術ではある。

獅子吼城(北杜市) (85)
横堀㋕と連結する帯郭㋖。往時は横堀だったと思われる。

獅子吼城(北杜市) (79)
主郭の東側。虎口があったようだが、改変されて良く分からない状態である。

≪獅子吼城≫ (ししくじょう、江草城、江草小屋、城山)

標高:788.4m 比高:125m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:山梨県北杜市須玉町江草
攻城日:2013年10月12日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:10分
見どころ:石塁、竪掘
注意事項:特に無し
駐車場:無し
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著)
付近の城址:

獅子吼城(北杜市) (93)
獅子吼城遠景。



【おまけ】

この城は巻尺持参で現地計測を敢行しております。
下記の図はその時の下絵でございますが、自分でも何が何だか酷い落書き・・・(汗)

これはこれで意外と楽しかったりします・・・(笑)

獅子吼城下絵



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Posted on 2014/07/06 Sun. 00:11 [edit]

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